EKIRIP LOCAL STORY|埼玉県新座市 × 手塚治虫
『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』『火の鳥』。数々の名作を生み出した漫画の神様・手塚治虫。
そんな巨匠が、人生の最後に仕事場を構えた場所をご存じでしょうか。
東京の都心でも、漫画家が集まったトキワ荘でもありません。
埼玉県新座市の住宅街です。
しかも、その仕事場は今も残されています。机やペン、墨汁、愛用の品々。手塚治虫が使っていた部屋が、当時とほぼ同じ姿で保存されているのです。
なぜ、世界的な漫画家の最後の仕事場が新座だったのでしょう。
調べてみると、手掛かりは意外にも、隣の東久留米市と、新座に広がっていた森にありました。
先に答えを少しだけ。
手塚治虫は当時、東久留米市に暮らしていました。都心の仕事場への移動を負担に感じ、自宅から近く、緑の豊かな場所を求めたことが、新座スタジオ誕生の大きな理由です。
ただし、せっかく完成した仕事場で過ごせた時間は、驚くほど短いものでした。
まず知っておきたい4つの事実
場所:埼玉県新座市の手塚プロダクション新座スタジオ(第一スタジオ)
完成:1988年4月とする手塚プロ公式記録がある
選ばれた理由:東久留米の自宅に近く、自然豊かな環境だったこと
現在:アニメーション制作拠点として使用中。アトリエは保存されているが、通常の一般見学は受け付けていない
情報確認日:2026年10月23日。開設年の資料差については本文で説明します。
- なぜ東京ではなく、新座だった?
- 決め手は15分と、周囲の森だった
- そもそも、何をするスタジオだった?
- 完成したのに、使えたのは約5か月?
- 最後の部屋には何が残っている?
- 新座とアトムの不思議な関係
- 現在、アトリエを見学できる?
なぜ東京ではなく、新座だった?

漫画の神様が仕事場を作るなら、出版社が集まる都心のほうが便利そうです。
実際、手塚プロダクションの本社がある高田馬場は、漫画やアニメの仕事と深い関わりを持つ街でした。
それなのに、制作の拠点として選ばれたのは新座。
ここで一つ、思い込みに気づきます。
手塚治虫にとって、便利な仕事場とは、必ずしも都心にある仕事場ではなかったのです。
実は、住んでいたのは隣の東久留米市
手塚治虫は1980年から晩年まで、東京都東久留米市で暮らしていました。
一方、仕事の拠点は高田馬場。自宅と仕事場が離れていたのです。
2024年に公開された手塚プロダクションの松谷孝征氏へのインタビューには、新座スタジオが生まれた理由が詳しく語られています。
当時の手塚プロは漫画やアニメの仕事を多く抱え、高田馬場周辺に複数の部屋を借りて制作を進めていました。
しかし、手塚治虫本人は東久留米から高田馬場への車での移動を大変だと感じ、自宅の近くにスタジオを作ってほしいと求めたそうです。[1]
なるほど。漫画の神様にも、移動時間の悩みがあったのです。
しかも、松谷氏の証言によれば、手塚治虫は一週間に一度ほどしか自宅に帰らないほど、仕事に打ち込んでいたといいます。
それでも、移動の負担は小さくしたかった。
この事実を知ると、新座への移転が、単なる郊外進出とは違って見えてきます。
仕事に集中するための、現実的な選択だったのです。
決め手は「車で15分」。でも、それだけではなかった

自宅に近い場所がよかったのなら、東久留米市内でもよさそうです。
なぜ、県境を越えて新座になったのでしょうか。
松谷氏のインタビューには、さらに具体的な手掛かりが登場します。
新座スタジオは手塚治虫の自宅から車で約15分。そして当時は、周囲が森に囲まれていたというのです。[1]
近さと自然。この二つがそろっていたことが重要でした。
今の住宅街からは想像しにくい、1980年代の風景
現在の新座スタジオ周辺には住宅が並んでいます。
ところが、完成した1988年ごろには、周辺に空き地や雑木林が広がっていたと手塚プロダクションの社内紹介に記されています。[2]
2013年の手塚治虫公式サイト「虫ん坊」でも、スタジオの場所を決めた大きな理由として、新座の豊かな緑が紹介されています。[3]
東京に近い。それでいて、窓の外には森がある。
いまなら、静かな自然の中で仕事をするための郊外オフィス、と表現するかもしれません。
でも、手塚治虫の場合はもう少し意味がありそうです。
昆虫好きの少年だった手塚治虫
手塚治虫は幼いころから昆虫や自然に親しみ、多くの作品で生命や自然を描いたことで知られています。
その背景を知ると、森のそばに仕事場を置きたいという希望にも、手塚治虫らしさが感じられます。
ただし、ここは区別が必要です。
「昆虫が好きだったから新座を選んだ」と、一つの理由だけにまとめることはできません。
確認できるのは、自宅との距離、仕事場としての条件、自然の豊かさが、新座選定の理由として語られていることです。
そして、もう一つの疑問が浮かびます。
そもそも新座に作ろうとしていたのは、手塚治虫一人のためのアトリエだったのでしょうか。
漫画家の個室ではなかった。新座は「制作の拠点」だった

ここで話は、個人の仕事場から会社の歴史へ広がります。
手塚プロダクションには、高田馬場に本社がありました。
一方、新座に置かれたのは、漫画やアニメーションを実際に制作するためのスタジオです。
新座スタジオの正式名称は「手塚プロダクション第一スタジオ」。アニメーション制作だけでなく、貴重な資料の保管や管理も行われてきました。[2]
つまり、新座は漫画家の別荘のような場所ではありません。
作品を生み出すスタッフが集まる、手塚プロダクションの重要な制作現場だったのです。
高田馬場と新座。二つの街に分かれた役割
高田馬場周辺で分散していた制作機能を、新たなスタジオに集める。
その場所なら、手塚治虫本人も東久留米の自宅から通いやすい。
会社の制作環境を整えることと、本人の移動負担を減らすこと。この二つが一緒に進んだわけです。
実は、この新座への移転をめぐっては、飯能市も候補地として挙がっていたことが、手塚治虫公式サイトの連載で紹介されています。[4]
飯能という別の候補があったことを考えると、新座が最初から唯一の選択肢だったわけではありません。
複数の可能性の中から、新座が選ばれたのです。
完成は1987年? 1988年?
資料を調べると、ここで少しややこしいことが起きます。
埼玉県が2026年7月の視察記録で紹介した説明では、昭和62年、つまり1987年にスタジオを作ったと記載されています。[5]
一方、手塚プロダクションの公式サイトや公式情報誌「虫ん坊」では、1988年4月に完成したと説明されています。[6]
今回の記事では、完成時期を具体的に示す手塚プロ側の記録に従い、1988年4月完成としています。
県資料との違いは、計画・整備・完成など、どの段階を指しているかの可能性もありますが、今回確認した資料だけでは断定できません。
重要なのは、このスタジオが1980年代後半に整備され、手塚治虫の最晩年の制作拠点になったという点です。
そして、この完成年を知ると、物語は思わぬ方向へ進みます。
完成したのに、手塚治虫が使えたのは約5か月だった?

1988年4月。新座スタジオが完成しました。
自宅から近く、自然もある。制作スタッフの仕事場も整えられた。
これから長く、この場所で漫画とアニメを作っていく。
そんな新しい拠点になるはずでした。
しかし、スタジオ完成の時期は、手塚治虫が病気と向き合う時期とも重なっていました。
新しい仕事場に通えた時間
松谷孝征氏は2024年のインタビューで、手塚治虫が新座スタジオに来られるようになったのは1988年6月ごろで、11月末には再び入院したと振り返っています。
スタジオで過ごした期間は約5か月だったという説明です。[1]
わずか5か月。
何年も使うつもりで準備した仕事場だったとすれば、あまりにも短い時間です。
手塚治虫が東久留米市に移り住む。
新座の自然環境に着目し、スタジオを設ける場所として検討・選定。
手塚プロダクション新座スタジオが完成。
病気の治療を経て、手塚治虫が新座スタジオで仕事をするようになる。
松谷氏の回想によると、このころ再び入院。新座で働いた期間は約5か月。
手塚治虫が60歳で亡くなる。
年表は手塚プロダクション公式資料、関係者インタビュー、国立国会図書館レファレンス協同データベース掲載資料などをもとに整理。[1][6][7]
新座スタジオが完成してから、手塚治虫が亡くなるまで、約10か月しかありませんでした。
もちろん、その期間ずっとスタジオにいたわけではありません。治療や入院もありました。
だからこそ、新座スタジオは「長年使われた仕事場」ではなく、「最後に用意され、短い時間を過ごした仕事場」という意味を持っています。
では、その最後の部屋は、いまどうなっているのでしょうか。
最上階に残る部屋。そこには何がある?
新座スタジオの最上階、4階の奥。
そこに、手塚治虫のアトリエが保存されています。
手塚プロダクションが公開している社内紹介や「虫ん坊」の特集には、この部屋の様子が詳しく記録されています。
窓際に置かれた仕事机。
愛用のペンや墨汁。
壁一面の本棚。
手塚作品のキャラクターたちや、本人が集めたコレクション。
手塚治虫が使っていたころの雰囲気が、現在まで伝えられているのです。[2][6]
机は一つではなかった
特に目を引くのが、仕事机の存在です。
手塚プロダクションの社内紹介では、アトリエに漫画用とアニメ用の二つの机が並んでいると説明されています。[2]
二つの机。
漫画家のアトリエと聞くと、大きな机に原稿用紙が積まれている光景を想像しがちです。
けれど、手塚治虫が向き合っていたのは漫画だけではありません。
漫画を描く一方で、アニメーション制作にも深く関わっていました。
二つの机は、そんな活動の広がりを感じさせます。
完全に時間が止まっているわけではない
ここで、もう一つ知っておきたいことがあります。
保存されているからといって、部屋のすべてが1989年当時のまま固定されているわけではありません。
手塚プロダクションの2011年の紹介では、本棚に新しい単行本が加わっていることも記されています。[6]
つまり、当時の仕事場を大切に残しながら、手塚作品の歴史も積み重ねられている場所なのです。
そして、この部屋が存在する建物は、単なる保存施設になったわけではありません。
2026年7月の埼玉県の視察記録でも、新座スタジオが現在もアニメーション・漫画制作の拠点であること、アトリエが生前とほぼ同じ形で保存されていることが確認できます。[5]
過去の仕事場が残る建物で、いまも新しい作品が生み出されている。
ここが、単なる記念館とは大きく違うところです。
新座には、もう一人の有名な住人がいる?
手塚治虫と新座の関係は、仕事場だけでは終わりません。
新座には、手塚作品に登場する、ある有名なキャラクターとのつながりがあります。
それが『鉄腕アトム』のアトムです。
アトムが新座市の特別住民に
実は新座市では、アトムが特別住民として迎えられた歴史があります。
手塚治虫公式サイトの2013年の特集では、新座市商工会と手塚プロダクションの交流や、市内に置かれたアトムの像、地域での活動が紹介されています。[8]
もちろん、アトムは漫画の中のキャラクター。実在の住民になったという意味ではありません。
地域と作品の関係を表す、特別な取り組みです。
漫画の主人公が、街の住人として親しまれる。
現実と物語が少し重なったようで、なんとも手塚作品らしい話です。
仕事場から、街ぐるみのつながりへ
最初は、制作のために選ばれた新座。
しかし、スタジオができたことで、手塚プロダクションと地域との交流が育っていきました。
埼玉県の2026年の資料でも、新座市や市商工会との連携、アトム通貨、ウォーキングイベント、商工祭のPRなどへの協力が紹介されています。[5]
ここに、ちょっと面白い変化があります。
手塚治虫は、よりよい制作環境を求めて新座を選びました。
その結果、スタジオは街と手塚作品をつなぐ場所にもなっていったのです。
一人の漫画家の仕事場探しが、何十年も続く地域の縁につながった。
これは、1980年代に新座が選ばれたときには、まだ見えていなかった物語かもしれません。
現在、手塚治虫のアトリエを見学できる?

ここまで読むと、保存された机やペンを実際に見たくなるかもしれません。
ただし、訪問には大事な注意点があります。
新座スタジオは、一般向けに常時公開されている記念館ではありません。
手塚治虫公式サイトの2013年の記事では、一般見学を受け付けていないと明記されています。2016年には特別なバスツアーで内部が公開された例がありますが、通常公開とは異なります。[8][9]
2026年10月23日時点で、定期的な一般公開や自由見学の受付を示す公式案内は確認できませんでした。
仕事場の保存は、自由に入館できることを意味しません。スタジオは現在も制作業務に使用されています。
許可なく建物内や敷地内へ入ることは避けてください。周辺は住宅街のため、近隣住民や業務への配慮も必要です。
公開企画が行われる場合は、手塚プロダクションの公式案内で条件を確認しましょう。
部屋の様子を知りたいなら、公式レポートがある
現地に入れなくても、保存された部屋について知る方法はあります。
手塚プロダクションの公式サイトには、アトリエ内部を紹介した記事が公開されています。
とくに「虫ん坊 2011年12月号」では、4階のアトリエや、そこで使われていた道具、本棚の様子などを詳しく見ることができます。
手塚プロダクション新座スタジオ|基本情報
- 施設名
- 株式会社手塚プロダクション 新座スタジオ(第一スタジオ)
- 所在地
- 埼玉県新座市
- 主な用途
- アニメーション・漫画制作、関連資料の保管・管理など
- 完成時期
- 1988年4月(手塚プロダクション公式資料による)
- 手塚治虫のアトリエ
- 建物の最上階に保存
- 一般見学
- 通常の一般見学は受け付けていないと公式記事に記載。2026年10月23日時点で定期公開の案内は確認できず
- 公式情報
- 手塚プロダクション 社内紹介 ↗
なお、新座市で手塚作品とのつながりを感じたい場合は、市や商工会が発信するアトム関連情報を確認するのも一つの方法です。
そして西武池袋線の東久留米駅には、手塚治虫と街の関係を伝える、実際に屋外から見学できるモニュメントがあります。
その話は、この記事の最後でもう一度ご紹介します。
新座の住宅街に残る、漫画の神様の「最後の机」
最初は少し不思議でした。
なぜ、世界的な漫画家の仕事場が、新座の住宅街にあるのだろう。
調べる前は、何か特別な記念事業があって、ここにスタジオが建てられたのかもしれないと思えます。
けれど、たどり着いた理由はもっと身近なものでした。
自宅から通いやすいこと。
制作スタッフが働ける場所であること。
そして、窓の外に豊かな自然があること。
そんな条件から、新座は選ばれていました。
ただ、その場所が完成したころ、手塚治虫には残された時間が多くありませんでした。
本人が新座で仕事をしたのは、約5か月。
それから長い年月が流れました。
かつて周囲に広がっていた森の多くは住宅街へと変わり、スタジオの外の景色も変化しました。
それでも、建物の最上階には、手塚治虫が使っていた机と道具が残されています。
そして、同じ建物では現在も漫画やアニメーションの制作が続いています。
新座のスタジオは、漫画の神様が最後に仕事をした場所であり、いまも創作が続く場所でもあるのです。
住宅街の中に建つ一つのビル。
その成り立ちを知ると、ただの仕事場とは少し違って見えてきます。
かつてそこには、一人の漫画家が新しい作品を作るために選んだ、森に囲まれた仕事場があったのです。
手塚治虫の物語は、西武線のほかの街にも続いている
新座に残る最後の仕事場。その理由が分かったら、次は手塚治虫が暮らした街や、アトムと深く結びついた街へ。
同じ作者をたどっているのに、それぞれの場所で、まったく違う物語に出会えます。
参考資料・出典
本記事は、手塚プロダクション公式資料、関係者への取材記事、埼玉県の公表資料などを照合して作成しました。
-
アニメスタジオクロニクル Vol.18 手塚プロダクション 松谷孝征
アニメ制作会社の関係者インタビュー/2024年10月8日
新座選定の理由、自宅との距離、制作機能の集約、本人がスタジオで過ごした期間についての証言。
https://alert.shop-bell.com/news/162580/ -
社内紹介|手塚プロダクション
株式会社手塚プロダクション
新座スタジオの用途、周囲の環境、最後の仕事場や保存状態についての紹介。
https://tezuka.co.jp/company/report.html -
虫ん坊 2013年8月号「虫さんぽ 第29回」
手塚治虫公式サイト
新座の豊かな自然、スタジオ選定の背景、当時の周辺風景についての記録。
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201308/column.html -
虫ん坊 2012年4月号「虫さんぽ」
手塚治虫公式サイト
高田馬場から新座への制作部門移転、飯能市が候補に挙がっていたことについての記述。
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201204/column.html -
南西部地域(令和8年7月29日)
埼玉県/2026年7月29日の知事視察に関する記録
新座スタジオの設置背景、現役の制作拠点であること、最晩年のアトリエの保存状況、地域連携について。
埼玉県公式ページ -
虫ん坊 2011年12月号「手塚プロ 新座スタジオのいま」
手塚治虫公式サイト
1988年4月完成の記録、4階アトリエ、愛用品、本棚、スタジオ内部についての紹介。
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201112/special2.html -
レファレンス協同データベース|1988年の手塚治虫に関する調査
国立国会図書館・参加図書館
1988年のスタジオ完成、入院、1989年2月の死去などの年譜情報。
レファレンス協同データベース -
虫ん坊 2013年6月号「虫さんぽ 第28回」
手塚治虫公式サイト
新座市と手塚プロの交流、アトム関連の取り組み、スタジオの一般見学についての記録。
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201306/column.html -
虫ん坊 2016年7月号「手塚治虫文化賞 バスツアー&贈呈式レポート」
手塚治虫公式サイト
通常非公開のアトリエが特別ツアーで公開された事例。
https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201607/special1.html
最終情報確認日:2026年10月23日。歴史上の年号や証言は、資料の記載・発言時点に基づきます。公開条件などは変更される可能性があります。