
拝島駅から、橋の「中」に残る明治をたどる
レンガの橋を見に来たはずなのに、目立つのはコンクリート。拝島駅近く、玉川上水に架かる「日光橋」は、そんな少しややこしい橋です。
しかも、福生市郷土資料室が紹介する肩書きは「国内現存最古の道路レンガアーチ橋」。都内どころか、道路用のレンガアーチ橋という範囲では、国内最古なのだそうです。[1]
それなら、レンガはどこへ?
答えは、橋の中央部分。1891年にできたレンガアーチを残し、1950年に両側を広げたのが、現在の日光橋です。古い橋が消えたのではなく、新しい部分の間に残っていました。[1]
まずはひと安心。ただ、見えていないのはレンガだけではありません。「日光」という名前も、いまの小さな橋からは想像しにくい、道の行き先を教えてくれます。
レンガ橋なのに、なぜコンクリートで挟まれている?
日光橋のレンガアーチができたのは、明治24年、1891年。アーチとは、橋の下を弓なりにした構造のことです。その橋を活かしながら、昭和25年、1950年に両側へ鉄筋コンクリートのアーチを付け足し、幅を広げました。[1][2]
つまり、横から見える新しい部分だけで判断すると、明治の橋を見落としてしまうわけです。橋の年齢、見た目だけでは当てられません。
東京都の解説でも、水面上にレンガの一部が見えると案内されています。現在の橋は長さ約16メートル、幅9.20メートル。レンガとコンクリート、二つの時代の構造が一つになっています。[2]
ここでいう「最古」は、国内に現存する道路用のレンガアーチ橋としてのもの。石橋や鉄道橋まで含めた「日本でいちばん古い橋」という意味ではありません。
そして、明治の橋材には、もう一つ土地の手掛かりがあります。福生市郷土資料室の解説では、使われたレンガの85%近くが日野市内で作られた「日野レンガ」でした。拝島駅のそばに、日野で焼かれた材料が残っているのです。[1]
ただ古いだけではなく、どこで作られたものが、どのように残されたかまで分かる橋。そうなると、今度は橋そのものより古そうな名前が気になってきます。
拝島にあるのに、どうして「日光橋」?
日光と聞くと、栃木県の東照宮を思い浮かべます。拝島からは、ずいぶん先の話に見えます。
ところが、この名前はちゃんと日光につながっていました。橋が架かる道は、八王子から日光へ向かう「日光街道」、別名「日光往還」だったのです。「往還」は、行き来する道のこと。[1]
この道を使ったのが、江戸幕府に仕えた八王子千人同心です。福生市の解説では、1652年に日光の火の番を命じられ、当初の江戸経由から、八王子・拝島を経て日光へ向かう経路に変わりました。[3]
日光橋は、その街道が玉川上水を渡る場所。橋の名前は、現在地ではなく、ここを通る人の行き先を示していたのです。
なお、ここでいう日光街道は、五街道の一つとして知られる、江戸から北へ延びる「日光道中」とは別の道です。同じ日光行きでも、出発地と道筋が違います。名前だけで地図を思い浮かべると、少し迷子になりますね。[3]
レンガアーチは明治のものですが、日光への道の歴史は江戸時代。橋の材料と名前は、それぞれ違う時代を覚えていました。
そんな大事な道の橋が、なぜ今は小さく見える?
警備に向かう人が通る街道だったと分かると、今度は逆に、現在の控えめな姿が不思議です。もっと大きな道路が通っていてもよさそうなのに。
実は、日光橋を通る道は、かつて国道16号のルートでした。福生市郷土資料室によると、1965年に武蔵野橋ができ、新しいルートへ移ったのです。それ以前には、日光橋と線路の反対側をつなぐ踏切もありました。[1]
「昔から静かな脇道の橋だった」と思うと、ここで話がひっくり返ります。道の主役が移ったあとに、古い橋が残ったのでした。
昭島の地域資料にも、かつて日光橋と南側の踏切を路線バスが通っていたことが記されています。今の景色にバスの経路を重ねると、この小さな橋の役割が少し大きく見えてきます。[4]
1891年にレンガへ架け替え、1950年に拡幅し、1965年には国道のルートが移る。年号を順に置いてみると、一つの橋が、道の変化の中で使われ続けてきたことが分かります。
そして、この道をたどる手掛かりは、橋だけではありません。すぐ近くには、かつて街道の真ん中を流れた水へつながる場所もあります。
橋の下の水は、江戸へ行くだけではなかった?
日光橋が架かるのは、拝島分水ではなく玉川上水の本流です。拝島分水の取水口は別の場所で、拝島駅北口近くの「平和橋」の南詰東側にあります。橋と分水を一つの施設だと思うと、ここで取り違えてしまいます。[2][5]
分水とは、大きな水路から水を分けて引くこと。玉川上水は江戸へ飲料水を送るための水路でしたが、その水は途中の地域の暮らしにも使われました。拝島分水も、取水口から南へ流れ、拝島宿へ引かれていました。[5]
そして昭島市の史跡案内には、拝島分水がかつて拝島宿内の日光街道の中央を流れ、生活用水や宿場用水として重要だったとあります。道の脇、ではなく真ん中です。[6]
「日光へ向かう道」と「宿場を支える水」。別々に調べていた二つの話が、ここで同じ街道に重なりました。
日光橋は、人が玉川上水を渡る場所。拝島分水は、その上水の水を宿場へ届ける流れ。仕組みは違いますが、並べて見ると、拝島を通る人と、そこで暮らす人の両方を支えた道と水の関係が見えてきます。
今の水辺だけから、昔の宿場の姿まで読み取るのは難しいもの。それでも、橋の名前と取水口の位置を知ると、散歩の地図に一本、昔の道筋が加わります。
見に行くときは、橋と取水口を分けて探す
日光橋の所在地 東京都福生市熊川5004番地。西武拝島線・JR各線の拝島駅北口から徒歩圏です。平和橋より玉川上水の上流側にあります。[2][3] 拝島分水取水口 拝島駅北口近く、平和橋の南詰東側。日光橋の下を流れる水路そのものを「拝島分水」と呼ぶわけではありません。[5] 観察のポイント 橋の外側のコンクリートと、中央部に残るレンガの違い。見える範囲は立つ位置や水位で変わるため、通行できる場所から無理なく観察してください。柵を越えたり、水路へ下りたりする必要はありません。 散歩を延ばすなら 玉川上水沿いの「玉川上水緑地日光橋公園」へ。市の案内では開閉時間は9:00〜17:00です。これは公園の時間で、橋自体の通行時間を示すものではありません。[7]目立たない部分に、いちばん古い時間が残っていた
レンガ橋と聞いて探したのに、コンクリートが目に入る。その小さな食い違いの理由は、明治の橋を残しながら、昭和に幅を広げたことでした。
そして「日光」という名前をたどると、橋の上には警備へ向かう人の道があり、近くで分けられた水の先には、その道沿いの宿場の暮らしがありました。
日光橋の古さは、見た目を昔のままに保った古さとは少し違います。材料を継ぎ足し、道の役割が変わったあとも、古い部分がそこに残っている。
次に目に入るコンクリートは、もうレンガを見失わせるだけのものではありません。その間に明治のアーチが残っていると知ったぶん、何気ない橋が、少し奥行きを持って見えるはずです。
見えている姿の下に、別の仕組みや時間がある。そんな発見を続けるなら、次の二つの話へ。