
一橋学園駅|緑のキャンパスの来歴をたどる
一橋大学のキャンパスなのに、一橋大学以外の学生も暮らしている。
玉川上水沿いにある「小平国際キャンパス」。緑豊かなこの場所には、一橋大学の日本人学生や留学生に加え、東京学芸大学、東京農工大学、電気通信大学の留学生も入る国際学生宿舎があります。大学の名前は一つ。住む学生の所属は、四つです。[1]
どうして、ここにそんな暮らしの場ができたのでしょう。
「昔の陸軍学校の跡が、国際キャンパスになった」と聞けば、なるほどと思いそうになります。でも、一橋大学の歴史を開くと、最初の手掛かりは戦後ではありません。前身の東京商科大学の予科は、1933年に小平へ移っていました。[2]
出発点から、少し予想と違います。まずは「軍学校跡」という説明をいったん脇に置いて、この大学自身の足跡を追ってみましょう。
ここは学生の住まいを含む大学施設です。一般向けの公園として紹介する場所ではありません。散歩で周辺を訪れる場合も、構内の立入範囲は現地の表示・大学の案内に従ってください。
国立の大学が、どうして小平にもあるの?
一橋大学と聞いて、国立駅前の大学通りを思い浮かべる人もいるはずです。それなら、なぜ小平にも敷地があるのでしょう。
背景にあるのは、1923年の関東大震災です。当時の東京商科大学は、神田一ツ橋にあった建物の大半を失いました。翌1924年、予科は石神井の仮校舎へ移り、その後、1933年8月に小平校舎へ移転します。[2]
予科とは、当時、大学の専門的な勉強に進む前の教育を担っていた課程のこと。現在の学部と、仕組みがそのまま同じというわけではありません。
一方、本科などは国立へ移っていました。つまり、国立と小平にキャンパスがあるのは、大学が震災後に学びの場所を立て直していく中で、異なる課程がそれぞれの場所へ移った歴史につながっています。[2]
大学の住所を一つ覚えれば済むと思ったら、時間割の歴史まで出てきました。
少なくとも、小平の大学の歩みは戦前から始まっています。では、軍との関わりという話は、まったく別の話なのでしょうか。
それでも、大学の歴史に「軍」が出てくるのはなぜ?
一橋大学の公式年表には、見過ごせない記録があります。
1944年3月、予科校舎が軍に貸し出されています。同年4月には商学専門部校舎も軍へ、12月には兼松講堂や国立校舎の一部が軍需会社へ貸し出されました。[2]
ここで、出来事の順番が大事になります。
1933年に大学の予科が小平へ移り、1944年には、その予科校舎が軍へ貸し出された。大学の校舎として使われていた場所にも、戦争の影響が及んでいたのです。
「軍学校がなくなったので、そこに大学を作った」という一本道では、この順序を説明できません。周辺の軍学校の歴史と、大学の校地・校舎の歴史は、分けてたどる必要があります。
また、この年表の記述だけから、貸出先を特定の軍学校だと決めたり、今ある建物を当時の軍用施設だと判断したりすることもできません。
現在の穏やかな緑からは想像しにくいものの、大学にも戦時中の出来事が重なっています。ただ、その歴史を知ることと、敷地全体を「陸軍学校跡」と呼ぶことは、同じではないのです。
学ぶ校舎は、いつ「暮らすキャンパス」へ変わった?
戦後の1949年、新制の一橋大学が発足します。学部の課程は前期と後期に分かれ、前期は小平分校、後期は国立本校で開かれることになりました。小平は、大学生活の前半を過ごす学びの場でもあったわけです。[3]
その役割が大きく変わるのが、1996年です。大学は4年間を通した教育の体制を整え、小平分校を廃止しました。一般教養科目の講義も、一部を除いて国立キャンパスで開かれるようになります。[3]
授業が移った。それなら、小平は役目を終えたのでしょうか。
ここで現在の名前につながります。2003年5月には、小平国際キャンパスの完成記念式典が行われました。現在は国際学生宿舎や国際ゲストハウス、スポーツ施設などが置かれています。[2][4]
大学のキャンパスというと、つい黒板と講義室を探してしまいます。でも、学生が暮らし、交流し、体を動かす場所も、大学を支える大事な一部です。
小平の歩みをたどると、「大学がなくなった」というより、大学の中で担う役割が変わったと捉えるほうが、今の姿を理解しやすくなります。
「国際」は、外国から来た人だけの話ではない
では、国際学生宿舎では、どんな仕組みで人がつながるのでしょう。
一橋大学の案内では、国際学生宿舎一橋寮は、一橋大学の日本人学生と外国人留学生、そして東京学芸大学・東京農工大学・電気通信大学の外国人留学生が暮らす宿舎であり、交流の場とされています。[1]
「国際」と付いていても、留学生だけで閉じた場所ではありません。国をまたぐだけでなく、大学の所属もまたいでいます。
その仕組みは、部屋のつくりにも表れます。共用タイプでは、六つの個室が一つのまとまりになり、補食・談話室やシャワー室、洗濯室などを共有します。個室タイプにも、複数の部屋で使う共用スペースがあります。[1]
交流の舞台は、大きな会議室ばかりではなさそうです。設備を見ると、台所や洗濯室といった、ずいぶん身近な場所が出てきます。
もちろん、同じ建物に住めば自動的に交流が生まれる、とまでは言えません。宿舎には生活を支える学生スタッフが住み、入居者組織のISDAKがイベント企画などを行う仕組みも用意されています。[1]
「国際キャンパス」という少し大きな言葉の中身は、住まいと共用設備、そして暮らしを支える人たち。その具体的な組み合わせが見えると、名前がぐっと身近になります。
周辺を訪れる前の小さな案内
場所 一橋大学 小平国際キャンパス東京都小平市学園西町1-29-1 アクセス 大学の交通案内では、西武多摩湖線・一橋学園駅南口から徒歩約7分。宿舎の案内では、駅から宿舎まで徒歩約10分とされています。目的の施設までの移動には余裕を見てください。[5][1] 見学について 観光施設としての一般見学時間・料金は、今回確認した案内では確認できませんでした。構内を見学したい場合は、大学に確認してください。大学は建物への無断立入りやスポーツ施設の無断利用などを禁じています。居住者や通行する学生の撮影にも配慮しましょう。[6] 緑を楽しむなら 小平市が「玉川上水沿いの緑豊かなキャンパス」と紹介する場所です。構内への入場を前提にせず、周辺の公道や玉川上水沿いの散歩と組み合わせて、その立地を感じる歩き方もあります。[4]
同じ緑の中で、大学の役割が変わってきた
一橋大学のキャンパスなのに、四つの大学の学生が暮らしている。
最初に気になったこの組み合わせは、小平が担ってきた役割の変化をたどると、少し違って見えてきます。震災後に予科が移り、戦時中には校舎が軍へ貸し出され、戦後は前期課程の学びの場になった。そして今は、学生の暮らしや交流を支えています。
「陸軍学校跡から留学生の森へ」という一言にまとめるより、実際の道のりには、いくつもの曲がり角がありました。
玉川上水沿いの緑は、大学の背景として眺めることもできます。でも、その向こうに講義を受けた学生たちの時代と、今ここで生活する学生たちの時間を重ねると、同じキャンパスが違う役割を引き受けながら続いてきたことが見えてきます。
大学の歩みを知ったら、帰りに使う駅の名前にも、もう一つ手掛かりがあります。
同じ駅でもう一つ|一橋学園の鉄道史 一橋学園駅は、もともと二つの駅だった 「一橋大学駅」と「小平学園駅」が統合されて生まれた現在の駅。大学の名前が、街の玄関にどう残ったのかをたどります。