
三島由紀夫、江戸川乱歩、東郷平八郎。多磨霊園には、本や歴史の授業で出会う名前の人たちが眠っています。けれど、この場所を知る最初の手掛かりは、有名人の名簿よりも、その周りの「森」にあります。
墓地なのに、なぜ、こんなに緑があるのでしょう。
木が育って、いつの間にか公園のようになった? そう考えたくなりますが、順番が違います。多磨霊園は1923年4月1日、初めから公園のような風景を取り入れた、日本初の公園墓地として開園しました。お手本は、海外の森林墓地です。[1][2]
西武多摩川線の多磨駅から徒歩約10分。散策に訪れる人もいる霊園ですが、今も多くの人がお墓参りをする場所です。静かに園路を歩くことを前提に、その造りをたどってみましょう。[1]
まず気になるのは、「公園らしさ」のために、どこまで場所を使ったのか、ということです。
お墓のための土地なのに、墓所は半分以下?
多磨霊園の広さは約128ヘクタール。都立霊園の中で最大です。アカマツや雑木林が点在し、サクラ並木もあります。[1]
ただ、大きいというだけなら、広大な墓地の説明で終わってしまいます。公式の園内案内には、もう一歩踏み込んだ数字が載っています。
実際の墓所面積は、敷地全体の50%以下。豊かな緑地などを確保する造りになっています。[3]
半分以下。お墓が主役の場所で、なかなか思い切った配分です。
これは「残りの半分以上がすべて森」という意味ではありません。園路や施設も必要です。それでも、墓所だけで土地を埋めず、緑や通り道を含む景観をつくっていることが分かります。
文化資源学会の見学記録でも、道路や広場に沿って樹木や芝生を配置し、その内側に墓地や施設を置く計画が紹介されています。緑は、お墓の隙間に足した飾りではなく、空間の組み立てに関わっているのです。[4]
でも、それだけ余白を持たせるなら、当時の東京は土地に困っていなかったのでしょうか。ここで、話が少し意外な方向へ進みます。
実は、出発点は「お墓が足りない」だった
多磨霊園が造られた背景には、東京の人口増加と市街地の拡大がありました。既存の墓地では使える場所が不足し、新しい墓地が必要になっていたのです。[2]
足りないから造る。それなのに、墓所は敷地の半分以下。
一見すると、逆向きの判断に見えます。ただ、多磨では東京の郊外に大きな敷地を確保し、ドイツの森林墓地を参考に、日本の墓の習慣も踏まえた新しい墓地を計画しました。必要な墓所を用意することと、緑のある環境をつくることを、一つの場所で進めたわけです。[2][3]
「西洋式」と聞くと、洋風の墓石がずらりと並ぶ風景を想像するかもしれません。でも、借りてきたのは石の形だけの話ではありません。森や園路を含め、墓地全体をどう造るかという考え方です。
ここで「日本初」の意味も、はっきりします。日本で最初のお墓でも、最初の公共墓地でもありません。青山や谷中などの公共墓地は明治時代からありました。多磨は、その後に生まれた日本初の公園墓地なのです。[2]
しかも、開園日は1923年4月1日。同じ年の関東大震災より前です。「震災が起きたので新しく造った」という順番でもありません。東京の成長に伴う課題へ、すでに動き始めていました。[5]
森の正体が見えてくると、今度は、その中に眠る人たちが気になります。これだけ著名人がいるなら、最初から偉人のために用意された場所だったのでしょうか。
偉人のための森? 墓石の名前が教えてくれること
出発点は、市民のための墓地を確保する計画でした。著名人だけの記念施設として誕生したわけではありません。
その歴史の中に、東郷平八郎も登場します。東京都公園協会の年表では、名誉霊域への埋葬は1934年。開園から11年後の出来事です。公式の著名人墓所一覧にも、東郷の墓所が掲載されています。[5][3]
一方、文学者の墓所には、もっと身近な手掛かりがあります。三島由紀夫のお墓を訪ねても、墓石の正面にあるのは「三島家」ではありません。
刻まれているのは「平岡家之墓」。三島由紀夫の本名は平岡公威です。墓所を紹介する地元の墓参・清掃事業者「たまのや」の記録でも、平岡家の墓であることが確認できます。[6]
本の表紙で覚えた名前だけでは、たどり着けないことがある。ここでは、文学の知識に家族の名前が一つ加わります。
江戸川乱歩も、本名は平井太郎。墓石は「平井家之墓」で、そばには「江戸川乱歩墓所」と刻まれた碑があります。[7]
乱歩だから謎めいた名前を隠した、という話ではありません。筆名と、本名の家族の墓が違うのです。推理小説を用意しなくても、名前を確かめるだけで小さな発見があります。
著名人の一覧では一人ずつ並ぶ人たちも、ここでは家族とともに眠る人。多磨霊園を「偉人たちの森」と呼ぶとき、その足元にある家族のお墓も見落としたくありません。
| 人物 | 墓所の区画 | 確認の手掛かり |
|---|---|---|
| 三島由紀夫 | 10区1種13側32番 | 平岡家の墓。地元事業者の墓所紹介で確認。[6] |
| 江戸川乱歩 | 26区1種17側6番 | 公式園内案内の著名人墓所一覧に掲載。[3] |
| 東郷平八郎 | 7区特種1側1番 | 名誉霊域。公式園内案内に掲載。[3] |
園内は広く、駅からの徒歩約10分に墓所までの移動時間は含まれません。先に公式の園内マップで区画を確かめ、訪ねる場所を絞ると歩きやすくなります。
100年前の公園墓地は、そのまま残っている?
こうして名前や年代をたどると、園内全体が1923年のまま保存されているようにも思えてきます。けれど、これも少し違います。
多磨霊園では、1962年に芝生墓地、1993年に新納骨堂「みたま堂」、2003年に合葬埋蔵施設、2021年に樹林型合葬埋蔵施設が設けられました。合葬は、多くの人の遺骨を共同で埋蔵する形式です。[5][2]
同じ園内でも、建てられた時代も、お墓の形も一つではありません。歴史上の人を偲ぶ場所でありながら、その後の暮らしや葬送の変化も重なっているのです。
最初にあった「東京に必要なお墓をどう用意するか」という課題は、開園した日で終わったわけではありません。緑を含む大きな場所の中で、少しずつ違う答えが加わってきた、と見ることができます。
静かに歩くための、来園案内
所在地・最寄り駅 東京都府中市多磨町4丁目628番地。西武多摩川線「多磨駅」から徒歩約10分。武蔵境駅で多摩川線に乗り換えられます。京王線の「多磨霊園駅」とは別の駅です。[3][8] 正門・小金井門の開閉時間 2026年10月1日〜2027年2月28日は8:30〜17:30。公式の通年案内では、3月1日〜9月30日は8:00〜18:30です。門や車止めによって扱いが異なるため、利用する入口と最新のお知らせを確認してください。[1][9] 2026年10月時点の施設情報 みたま堂は2027年3月まで閉鎖予定と案内されています。園内の散策と、納骨堂内への立ち入りは分けて考えてください。[9] 地図・問い合わせ 多磨霊園公式サイトに園内マップを掲載。管理事務所は042-365-2079。窓口は8:30〜17:30、書類受付は16:30まで、年末年始は休業です。[1][3]お墓参りや法要をしている方を優先し、園路から静かに見学しましょう。墓石や供物に触れず、撮影は墓参者や個人情報が写らないよう慎重に。ごみは持ち帰り、飲み物も来園前に用意しておくと安心です。
もう一度、あの「森」を見る
最初は、著名人が眠る大きな森に見えた多磨霊園。その緑には、墓所を敷地いっぱいに並べず、公園の風景とともに造るという設計がありました。
出発点は、成長する東京の墓地不足。そこに東郷平八郎らの歴史が加わり、三島由紀夫は平岡家の、江戸川乱歩は平井家の一員として眠っています。
木々の間の余白も、墓石に刻まれた家の名前も、背景を知る前とは少し違って見えます。「偉人たちが眠る森」は、たくさんの人が家族を見送ってきた場所でもある。その両方が重なるところに、多磨霊園の姿があります。
霊園の外にも、続きの手掛かりがある
帰りに目にする「多磨」という駅名にも、この霊園とつながる過去があります。緑をもう少したどりたくなったら、駅の周辺へ視野を広げてみてください。