
東大和南公園|旧日立航空機株式会社変電所
公園の中に残る建物。その壁には、無数のくぼみがあります。
古くなって表面が欠けたのでしょうか。それにしては、ずいぶん多い。
東大和南公園にある「旧日立航空機株式会社変電所」の壁に残るのは、1945年の米軍の空襲による傷です。機銃掃射――機関銃で地上を続けて撃つ攻撃――や、爆弾の破片によってできました。[1]
ただ、この建物の歴史は「空襲を受け、そのまま保存された」では終わりません。傷を残したまま、1993年まで変電所として働き続けていたのです。[2]
戦争の終わりと、建物の引退。その間には、48年もあります。なぜ、公園にあるこの建物が、それほど長く使われたのでしょう。
内部の一般公開は水・日曜日の10:30〜16:00(年末年始を除く)。無料・個人の予約不要です。所在地は東大和市ですが、市の交通案内では玉川上水駅から徒歩5分とされています。[2]
公園の中に、なぜ変電所がある?
最初の手掛かりは、現在の公園ではなく、ここにあった工場です。
1938年、現在の東大和市に当たる大和村に、航空機のエンジンをつくる軍需工場が建設されました。軍需工場とは、軍が使うものを製造する工場です。建設したのは東京瓦斯電気工業株式会社。翌年、日立航空機株式会社立川工場となりました。[2]
「航空機」と聞くと、完成した飛行機がずらりと並ぶ姿を思い浮かべがちですが、ここでつくられたのは、その動力となるエンジンでした。
そして、製造する機械を動かすには電気が必要です。変電所は、外から届く高い電圧の電気を、工場に送るための電圧へ下げる施設でした。[2]
東大和市教育委員会の説明を掲載した地域史サイトには、6万6,000ボルトから3,300ボルトに変えていたとあります。数字にすると、20分の1。名前は少し難しくても、役目は「工場が使う電気を整えて送り出すこと」です。[3]
つまり、公園のために建てられた設備ではありません。工場に必要だった建物が、後から公園の中に残った。まず、景色の順番がひっくり返ります。
この壁の穴は、すべて銃弾の跡なのか
工場の存在が分かると、次は壁の傷です。「弾痕」とまとめて呼んでいても、全部が同じ攻撃でできた穴なのでしょうか。
市の解説は、機銃掃射と爆弾の破片の両方を挙げています。したがって、一つひとつを見て「これはすべて銃弾が当たった跡」と決めつけることはできません。[2]
1945年、工場は2月17日、4月19日、4月24日に攻撃を受けました。市がまとめた犠牲者は、従業員や家族など合わせて111人。4月24日の爆撃では工場の約8割が壊滅したといわれています。[1][2]
残った建物だけを見ると、「建物が耐えた」という話に目が向きます。しかし、周囲の工場と、そこで働き暮らしていた人たちにも被害が及んだことは、切り離せません。
変電所も無傷だったわけではなく、爆風で窓枠や扉が吹き飛びました。それでも鉄筋コンクリートの建物本体は、致命的な損傷を免れました。[2]
外壁の傷の多さと、建物がその後も使えたこと。矛盾して見える二つの事実は、表面の被害と、建物本体の損傷を分けて考えるとつながります。
戦争が終わったのに、何へ電気を送っていた?
軍用機のエンジン工場なら、終戦と一緒に変電所の役目も終わりそうです。けれど、電気を必要とする仕事は、その後も続きました。
工場は戦後、屋根材などに使うスレートや編み物機の製造へと転換します。会社の合併や名称の変更を経ながら、工場の操業は2000年まで続きました。変電所も主要な機器を更新し、1993年まで電気を供給していました。[2]
ここで、壁の見え方がもう一度変わります。戦争直後の姿で時間が止まった建物、というわけではなかったのです。
外側には空襲の傷があり、内側では機器を取り替えながら、戦後の製造業を支えていた。一つの建物の中に、違う時代が重なっています。
1993年に役目を終えた理由について、東大和市立郷土博物館の執筆資料は、新しい施設が稼働したためと説明しています。ようやく設備としての世代交代が来たのです。[4]
「戦争の遺跡」と聞くと1945年で話を区切ってしまいそうになりますが、この建物の履歴には、その先も長く書き込まれていました。
引退した建物は、なぜ取り壊されなかった?
使われなくなった設備が、公園の中に残る。それも、傷が目立つ状態で。ここには、残そうとした人たちの判断があります。
公園として整備するに当たり、変電所は取り壊す予定でした。しかし地域住民や元従業員による保存運動が実り、移築せず、その場所で保存されることになりました。市は1995年10月1日、文化財に指定しています。[2]
空襲を耐え抜けば、自動的に今まで残るわけではなかった。建物が残った理由には、戦後の長い使用と、その後の保存活動という、二つの続きがあります。
また、傷が見えるからといって、何も手入れをしていないわけでもありません。郷土博物館の資料では、1995年の保存・改修に加え、老朽化などに対応する2020〜2021年の工事が紹介されています。[4]
傷を残すことと、建物を放置することは別。
現在見られる姿は、残すための工事や管理を経て受け継がれています。
同じ資料には、かつて工場にあった給水塔のことも記されています。塔は2001年に解体されましたが、弾痕のある壁の一部が切り取られ、変電所の脇へ移されました。[4]
変電所は建物ごと、給水塔は壁の一部。周囲を見ると、工場の記憶が異なる形で引き継がれたことも分かります。
見学するなら、水・日曜日に
壁の傷だけでなく、電気を送っていた建物の中も見るなら、内部公開日に合わせるとよさそうです。
施設名・所在地 旧日立航空機株式会社変電所東京都東大和市桜が丘2-167-18(都立東大和南公園内) アクセス 西武拝島線・多摩モノレール「玉川上水駅」から徒歩5分(東大和市の案内)。今回の地域テーマは東大和市駅ですが、公式の見学案内は玉川上水駅を起点としています。 内部公開 毎週水曜日・日曜日、10:30〜16:00。年末年始を除きます。 料金・予約 無料。個人の予約は不要。学校などの団体は、事前に郷土博物館へ連絡が必要です。 職員による展示解説 公開日の10:45〜11:30、14:00〜14:45。予告なく中止になる場合があります。 問い合わせ 東大和市立郷土博物館:042-567-4800
2026年10月17日確認。公開日時・展示解説は訪問前に東大和市の公開案内をご確認ください。所在地は市の施設案内に基づきます。公開日以外の内部には入れません。現地では公開範囲や係員の案内に従って見学してください。
壁に残っているのは、1945年だけではない
最初に目に留まった、壁一面のくぼみ。それは確かに、空襲がこの場所に及んだことを伝える傷です。
けれど、この建物が伝えているのは、攻撃を受けた日だけではありません。傷を残したまま電気を送り続けた年月と、引退後も残そうとした人たちの選択が、その後に続いています。
公園に取り残された古い建物、と思っていたものが、工場だった土地と今の公園をつなぐ建物に見えてくる。壁の穴を確かめた後は、建物が今も同じ場所に立っていることにも、目を向けたくなります。
駅の風景にも、以前の姿が残っている
変電所から街の変化をたどったら、次は駅へ。今の名前や路線図だけでは見えない、東大和周辺のもう一つの時間を追えます。