
東京・練馬区の住宅街に、国の天然記念物に指定された「植物の集まり」があります。
それも、温室や植物園の中ではありません。石神井公園にある、木々に囲まれた静かな池の中です。
名前は「三宝寺池沼沢植物群落(さんぽうじいけしょうたくしょくぶつぐんらく)」。
ずいぶん長い名前です。しかも、指定されたのは1935年。今から90年以上も前のことになります。
いったい、池に生えている植物の何がそれほど特別なのでしょうか。
そして、この池にはもう一つ、気になるものがあります。池の南側に残る、室町時代の「石神井城跡」です。
貴重な植物と、戦国時代へ向かう武士たちの城。まったく別の話に見えるこの二つが、同じ水辺に残っています。
その理由をたどると、東京がまだ「東京」ではなかったころの風景が、少しずつ見えてきます。
三宝寺池が国の天然記念物に指定されたのは、かつての武蔵野に広がっていた湿地の植物群落を伝える、学術的に貴重な場所だからです。そして石神井城は、池と川に挟まれた自然の地形を生かして築かれました。[1][2][3]
なぜ、ただの池の植物が「国の天然記念物」になったのか?

天然記念物という言葉を聞くと、樹齢何百年という大木や、珍しい動物を想像するかもしれません。
ところが、三宝寺池で指定されているのは、一本の木でも、一種類の花でもありません。
複数の植物が、同じ湿地環境の中で育っている「群落」そのものです。
ここが最初の大切なポイントです。
文化庁の国指定文化財等データベースによると、指定日は1935年12月24日。指定基準は「泥炭形成植物の発生する地域の代表的なもの」とされています。[1]
泥炭とは、水分の多い場所で枯れた植物が分解されきらず、長い時間をかけて積み重なったもの。
つまり、ここで注目されたのは、単にきれいな花が咲くことではなく、湿地特有の環境と、そこに生きる植物たちの組み合わせだったのです。
文化庁の解説には、カキツバタやミズガシワ、ミクリなどが登場します。そして、かつての武蔵野に特徴的だった湿地の植物群落が残ることを、その学術的価値として挙げています。[4]
まさか、池の中に「昔の武蔵野の植物図鑑」が残っていたとは。
しかし、まだ疑問があります。
なぜ、東京の住宅街の中に、そんな湿地が存在できたのでしょうか。
なぜ三宝寺池には、珍しい湿地植物が育ったのか?
答えの鍵を握るのは、植物そのものよりも、植物を支えてきた「水」です。
三宝寺池は、かつて武蔵野三大湧水池の一つとされていました。
湧水池とは、地下を流れてきた水が地表に湧き出してできる池のことです。
現在のように水道やポンプが身近ではなかった時代、自然に水が湧き続ける場所には、それ自体に大きな価値がありました。
石神井公園の公式案内によると、三宝寺池は江戸時代には日照りでも涸れないといわれ、昭和30年代ごろまでは冬でも水面が凍らない「不凍池」として知られていました。[3]
冬でも凍らない池。
東京にありながら、なんとも不思議な響きです。
豊富な湧水が水環境を支え、冷たくきれいな水を好む植物たちが育つ条件をつくっていました。
1935年の指定当時には、シャクジイタヌキモ、カキツバタ、ミツガシワ、ヒツジグサなどが繁茂していたと練馬区は説明しています。[2]
「氷河期の生き残り」と呼ばれる植物も
この植物群落を語るうえで、見逃せないのがミツガシワです。
ミツガシワは、寒冷な時代の植物相を伝える遺存植物として紹介されることがあります。
石神井公園の公式ガイドでも、氷河期からの残存植物とされるミツガシワを、この群落を代表する植物の一つに挙げています。[5]
もちろん、今生えている一株が氷河期から生き続けているという意味ではありません。
長い時間の中で、昔の気候や環境の特徴を伝える植物が、この水辺で確認されてきたということです。
ここで、三宝寺池の印象が少し変わってきます。
ただの緑豊かな公園ではなく、東京の土地が経験してきた自然環境を読み取るための場所だったのです。
カキツバタ:水辺や湿地に育ち、紫色の花を咲かせる植物。
ミツガシワ:湿原などに生える多年草。寒冷な時代の植物相を伝える存在として知られます。
ヒツジグサ:日本在来のスイレンの仲間。指定当時に生育していた植物の一つです。
なお、これらは三宝寺池の歴史的な植物相を理解するための代表例であり、現在すべてが同じ状態で観察できるという意味ではありません。
それほど貴重な植物が、なぜ姿を消してしまったのか?
ここまで読むと、三宝寺池は昔から変わらない自然の宝庫のように思えます。
ところが、実際には大きな変化が起きていました。
天然記念物に指定されたことと、自然がそのまま守られ続けたことは、同じではなかったのです。
練馬区の解説によると、昭和40年ごろから周辺の都市化に伴って湧水が減少しました。
1971年からは深井戸などによって地下水を供給するようになりましたが、十分な水量を確保できず、水質も次第に悪化していったとされています。[2]
かつて自然に湧き続けていた水を、人の手で補う必要が生じたわけです。
そして、水が変わると、植物も変わります。
ヨシやハンノキ、キショウブなどが繁茂するようになり、昔の池を特徴づけていた植物の構成は変化していきました。
ここで少し意外なのは、植物が増えることが、必ずしも昔の自然を取り戻すことにはならない点です。
ヨシやハンノキも植物です。しかし、ある種類が広がりすぎると、別の植物が育つ場所や光の条件が変わります。
池が緑に覆われているからといって、天然記念物として評価された植物群落が良好な状態にあるとは限りません。
守るべきなのは、単なる「緑の量」ではなく、その場所ならではの植物の組み合わせだったのです。
昔の姿に戻すため、木や草を伐採する?
東京都では、三宝寺池の植物群落を保全・復元するため、ヨシやハンノキなどの管理、水質浄化、貴重な水生植物の増殖や移植、植生の調査などを進めています。[2][6]
自然を守るために、あえて植物を刈る。
一見すると矛盾しているようですが、昔の湿地環境を維持するためには、こうした管理が必要になる場合があります。
ただし、現在の群落が1935年当時の姿へ完全に戻ったわけではありません。
三宝寺池は、貴重な植物が残る場所であると同時に、失われつつある湿地環境を人の手で守ろうとしている場所でもあるのです。
さて、ここまで池の自然を見てきました。
ところが、その池の南側には、まったく違う時代の痕跡が眠っています。
次は、植物ではなく、武士たちの話です。
なぜ、こんな静かな池のすぐそばに城があったのか?
三宝寺池の南側、石神井川との間にある台地。
ここに、かつて石神井城がありました。
城というと、高い石垣や大きな天守閣を想像しがちですが、石神井城はそうした姿の城ではありません。
中世の武士たちが築いた城館で、自然の地形を防御に生かした城だったと考えられています。
城を構えたのは、鎌倉時代から室町時代にかけて、南武蔵に勢力を持っていた豊島氏です。[7]
池と川に挟まれた土地は、天然の防御施設だった
ここで、三宝寺池の周囲の地形を思い浮かべてみましょう。
北側には池があり、南側には石神井川の谷があります。
その間の高台に城を置けば、水辺と斜面を防御に利用できます。
平らな土地に一から巨大な壁を造るよりも、もともとある高低差や谷を活用できるわけです。
石神井公園の公式案内でも、石神井城は池と川という自然の地形を利用して造られたと説明されています。[3]
つまり、植物にとって重要だった水辺の環境が、別の時代には城を置くための地形的な条件にもなっていたのです。
もちろん、天然記念物の植物群落が城の建設理由だったということではありません。
自然の水辺と地形が、それぞれ異なる形で利用され、評価されてきた。そう考えると、この場所の歴史が一本の線につながってきます。
今も残る「堀」と「土塁」
石神井城はすでに失われていますが、城の中心部分にあたる内郭には、土塁と空堀が残されています。
土塁は土を盛り上げて造った防御用の壁。空堀は水を張らずに掘った溝のことです。
1998年の発掘調査では、深さ約5メートルの空堀が確認されました。[8]
5メートル。建物の高さに置き換えると、かなりの段差です。
天守閣がなくても、地面そのものが城の姿を伝えています。
ただし、城跡の中心部分は文化財保護のため通常閉鎖されています。柵を越えて遺構の中に入ることはできません。[3]
石神井城は、なぜ1477年に姿を消したのか?

自然の地形を巧みに生かした城でも、永遠に守り続けられるわけではありませんでした。
1477年、文明9年。
石神井城は、太田道灌との戦いによって落城したと伝えられています。
太田道灌は、江戸城の築城でも知られる室町時代の武将です。
このころ関東では、武士同士の勢力争いが続いていました。豊島氏と太田道灌の対立も、その大きな政治的・軍事的な動きの中で起こったものです。
練馬区の文化財解説によると、石神井城は1477年に太田道灌によって攻め落とされ、その後は廃城となりました。[8]
ここで興味深いのは、城が失われても、その土地の高低差や池は残ったことです。
武士たちが争った時代の建物は消えてしまいましたが、城の防御に使われた地形は、今も読み取ることができます。
池に沈んだ城主と姫の伝説
さらに、石神井城には少し切ない伝説が残っています。
豊島氏の当主・豊島泰経が、太田道灌の軍勢に追われ、黄金の鞍を載せた白馬とともに三宝寺池へ身を沈めたという物語です。
そして、娘の照姫も父の後を追って池に身を投げたと伝えられています。
現在も池の周辺には「殿塚」「姫塚」と呼ばれる場所があり、この伝説を伝えています。[3]
ただし、これは歴史的な事実として確定した出来事ではなく、地域に伝わる物語です。
落城そのものを伝える歴史資料と、城主や姫の最期を語る伝説は、分けて受け止める必要があります。
それでも、この物語が今も語られていることには意味があります。
城がなくなったあとも、池が人々の記憶をつなぐ場所になってきたことが分かるからです。
植物の歴史だけでなく、人間の物語まで抱えている池。
三宝寺池には、思っていた以上に多くの時間が重なっています。
ところで、石神井公園の「もう一つの池」は昔からあったのか?

石神井公園には、三宝寺池のほかに「石神井池」があります。
この二つは、同じ公園にありながら、成り立ちが違います。
三宝寺池は、古くからの湧水によって形成されてきた池。
一方、石神井池は、もともと三宝寺池から水路が引かれ、田んぼが広がっていた場所に、1934年に水をせき止めて造られました。[3]
同じ公園の二つの池なのに、片方は古くからの自然の池、もう片方は昭和に造られた池だったのです。
しかも、石神井池が造られた翌年の1935年、三宝寺池の植物群落は国の天然記念物に指定されています。
この時代には、すでに水辺を人の手で整える動きと、昔から残る自然を文化財として評価する動きが同じ地域で起こっていたことになります。
現在、石神井池はボートなどを楽しめる開放的な水辺として知られています。
一方の三宝寺池は、湿地植物や樹林、城跡などが集まる静かなエリアです。
同じ池畔散歩でも、二つの池では見えてくるものが少し違います。
では今、三宝寺池では何を見れば面白い?
せっかく三宝寺池を訪れるなら、ただ水面を眺めるだけでは少しもったいないかもしれません。
もちろん、すべての植物を見分ける必要はありません。
まずは、次の三つの視点を持って歩いてみると、この場所の歴史がぐっと分かりやすくなります。
① 池の中央付近に残る植物群落を見る
天然記念物の中心となるのは、池の中にある浮島などの湿地植物群落です。
季節によって水辺の草花の姿は変わりますが、植物の名前だけでなく、どのような場所に育っているかに注目してみましょう。
水がある場所、植物が密集する場所、木が生える場所。それぞれが違う環境をつくっています。
保護されている群落へ立ち入ったり、植物を採取したりせず、指定された園路から観察してください。
② 池の南側にある斜面と城跡を見る
次に注目したいのは、池の周辺の高低差です。
特に南側の台地には、かつて石神井城がありました。
なぜこの場所に城を造ったのか。
池と川の位置関係を思い浮かべながら見ると、武士たちが利用した自然の地形を考える手掛かりになります。
城跡の内郭は通常閉鎖されているため、見学可能な園路や柵の外から観察しましょう。
③ 水辺観察園にも立ち寄ってみる
三宝寺池の近くには「水辺観察園」があります。
実はここも、昔からそのまま残っている場所ではありません。
公園公式によると、1920年に三宝寺池の一部を切り離して100メートルプールが造られ、その後は釣り堀となり、1989年に水辺観察園として開設されました。[3]
プール、釣り堀、そして自然観察の場所。
一つの水辺が、時代によってこんなに用途を変えてきたのです。
かつての武蔵野の水辺環境を取り戻そうとする取り組みを知るうえでも、立ち寄りたい場所です。
石神井城跡:東京都指定史跡
03-3996-3950
※散策は無料・予約不要です。ただし、文化財保護や管理作業などにより立ち入れる範囲が変わる場合があります。訪問前には公式案内をご確認ください。
三宝寺池は、東京の「消えなかった風景」だった
最初は、少し長すぎる名前に思えた「三宝寺池沼沢植物群落」。
けれど、その意味をたどってみると、単に珍しい植物が生えている池ではないことが分かります。
かつての武蔵野に広がっていた湿地。その環境に育つ植物たち。自然の地形を生かして築かれた石神井城。そして、都市化によって変わってしまった水の流れ。
三宝寺池には、異なる時代の痕跡が重なっています。
1935年に国が守ろうとした植物の集まりは、今も人の手による保全を必要としています。
1477年に落城した石神井城は、建物こそ失われましたが、土地の起伏にその名残をとどめています。
植物は変わり、城は消え、人々の暮らしも変化しました。
それでも、池と台地という土地の骨格は、昔を知るための手掛かりを残しています。
三宝寺池を訪れたとき、水面に浮かぶ植物だけでなく、その向こうに続く斜面にも目を向けてみてください。
そこには、武蔵野の自然を伝える植物群落と、かつて城を守った地形が、今も隣り合っています。
いつもの公園の池が、少し違った風景に見えるかもしれません。
参考資料・出典
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文化庁|国指定文化財等データベース「三宝寺池沼沢植物群落」
指定日、文化財種別、指定基準の確認。
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/700 -
練馬区|三宝寺池沼沢植物群落
指定当時の植物相、湧水減少、水質変化、復元事業について。
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b002.html -
東京都公園協会|都立石神井公園
三宝寺池、石神井池、石神井城跡、殿塚と姫塚、水辺観察園、利用案内について。
https://www.tokyo-park.or.jp/park/shakujii/ -
文化庁|文化遺産オンライン「三宝寺池沼沢植物群落」
指定時の植物群落の特徴と文化財としての価値について。
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/171755 -
東京都公園協会|石神井公園フィールドミュージアムガイド
ミツガシワなどの植物、城跡の遺構、地域の歴史について。
https://www.tokyo-park.or.jp/park/shakujii/assets/shakujii-FMG.pdf -
東京都議会|令和6年第二回定例会 文書質問および答弁
三宝寺池沼沢植物群落の維持管理、地下水、保全の取り組みについて。
https://www.gikai.metro.tokyo.lg.jp/record/proceedings/2024-3/01.html -
練馬区|石神井川流域の遺跡
豊島氏の城館、石神井台遺跡、石神井城の立地と歴史について。
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/isekihogo/shakujii.html -
練馬区|石神井城跡
1477年の落城、土塁・空堀、発掘調査、東京都指定史跡について。
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/bunkazai/b007.html
情報最終確認日:2026年10月20日
※歴史上の事実、文化財資料による説明、地域に伝わる伝説を区別して記載しています。植物の生育状況や観察できる範囲は季節・保全作業によって変わります。