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大泉学園駅から徒歩5分・入園無料・2026年は転居100周年
東京・大泉学園の住宅街に、300種類以上の植物が育つ小さな庭園があります。
その名は「牧野記念庭園」。
ここは、「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎が、晩年の30年余りを暮らした自宅の跡地です。
ただ、不思議なことがあります。
牧野がこの土地へ引っ越してきたのは、1926年。すでに64歳になる年でした。
普通なら、そろそろ仕事を落ち着かせてもよさそうな年齢です。
ところが牧野は、ここで植物を育て、標本を集め、研究を続けました。
なぜ、64歳の植物学者は大泉へ移り住み、自宅の庭を植物園のようにしたのでしょうか。
牧野にとって大泉への転居は、隠居のためではありませんでした。妻スヱと抱いていた「植物園をつくり、標本館を建てる」という夢を実現するための、新しい出発だったのです。[1]
そう考えると、庭に生えている一本一本の植物も、少し違って見えてきます。
実際にこの庭には、妻の名前を残した植物があり、博士が使った書斎まで保存されています。
まずは100年前の大泉へ、話を戻してみましょう。
なぜ64歳の牧野富太郎は、大泉を選んだのか?

1926年5月3日。牧野富太郎は、それまで暮らしていた渋谷から大泉へ転居しました。
今では住宅が立ち並ぶ大泉ですが、当時はまだ武蔵野の雑木林が残る、自然豊かな東京郊外でした。[1]
植物を研究する人にとって、これは大きな魅力だったのでしょう。
もっとも、転居の理由を単に「自然が好きだったから」とするだけでは、まだ説明が足りません。
牧野には、もっと具体的な計画がありました。
自宅に植物園と標本館をつくるという夢
牧野記念庭園が2026年に開催した転居100周年記念の企画展では、大泉への引っ越しを、牧野と妻スヱが抱いていた夢に向かう新たな門出として紹介しています。
その夢とは、植物園をつくり、標本を収める施設を建てること。
標本とは、採集した植物を乾燥させるなどして保存し、後から種類や特徴を調べられるようにした研究資料です。
牧野の仕事にとって、生きた植物と標本は、どちらも欠かせない存在でした。
そして大泉へ移った後、庭には自分で採集した植物や、各地から送られてきた植物が次々と植えられていきます。
1941年には、実際に「牧野植物標品館」が建設されました。[1]
つまり、この引っ越しは研究生活の終わりではなく、研究の拠点づくりだったわけです。
64歳から、自宅を研究拠点にしていく。
晩年という言葉の印象が、ずいぶん変わってきませんか。
ところで、そんな牧野が大切にした庭には、ひときわ個人的な意味を持つ植物が残っています。
その名も「スエコザサ」です。
スエコザサという植物に、なぜ妻の名前が残っている?

牧野記念庭園の代表的な植物の一つが、スエコザサです。
「スエコ」という響きから、人の名前を連想した方もいるかもしれません。
その通りです。
スエコザサは、牧野が発見し、妻スヱの名前にちなんで命名したササです。[2]
植物学者にとって、新しい植物に名前を与えることは重要な仕事です。
名前が付くことで、その植物はほかの植物と区別され、世界中の研究者が同じものについて話せるようになります。
そんな学問の世界に、妻の名前が残されている。
研究のための名前でありながら、夫婦の歴史も伝える名前なのです。
庭の胸像のそばに残る、夫婦のつながり
庭園には牧野博士の胸像があり、その周辺にスエコザサが植えられています。
ここで注目したいのは、単に珍しいササが見られるということではありません。
先ほど、大泉への転居には牧野とスヱが抱いた植物園・標本館の夢があったと紹介しました。
そして現在の庭には、その妻の名前を受け継ぐ植物がある。
100年前の計画と、目の前の植物がつながります。
植物に詳しくなくても、この名前だけは覚えて帰りたくなりますね。
では、ほかの植物はどうでしょう。
実はこの庭には、花が美しいというだけでは説明できない、少し変わった植物たちも育っています。
なぜ普通の住宅の庭に、300種類以上もの植物がある?
現在の牧野記念庭園には、300種類を超える草木類が生育しています。[3]
一般の住宅の庭として考えると、かなりの種類です。
しかも、ここで植物を集めた目的は、見栄えのよい庭を完成させることだけではありませんでした。
牧野は各地で植物を採集し、分類し、その特徴を調べ続けた人物です。
庭に植えられた植物は、日々その姿や生育を確かめられる、生きた研究対象でもありました。
牧野自身がこの庭を「我が植物園」と呼んで大切にしていたことも、庭園公式サイトに記されています。[3]
サクラ「仙台屋」は、博士ゆかりの大きな一本
園内で注目したいのが、サクラ「仙台屋(センダイヤ)」です。
仙台屋は、牧野が親しんだサクラの一つ。練馬区は、この庭の仙台屋を日本で最大級のものとして紹介しています。[2]
春になると、庭園にはさまざまなサクラが順番に花を咲かせます。
同じ「サクラ」でも、咲く時期や姿は一様ではありません。
植物を区別することに一生を費やした牧野の庭では、その小さな違いを意識して見てみるのも楽しみ方の一つです。
ヘラノキやダイオウマツも。名前からして気になる植物
園内にはヘラノキやダイオウマツなども育っています。
ヘラノキは、花に伴って現れる細長い葉のような苞(ほう)が特徴的な樹木です。植物の世界では、花びら以外の部分も大事な観察ポイントになります。
一方、ダイオウマツは長い針葉を持つマツです。
名前を知らずに歩けば、どちらも庭の緑の一部として通り過ぎてしまうかもしれません。
けれども、名前と特徴を知った途端、葉の付き方や形が気になってきます。
珍しい植物を眺める庭から、植物の違いを探す庭へ。
これこそ、牧野が大切にした植物観察の楽しさに近づく方法なのかもしれません。
庭だけではなかった。4万5千冊の本に囲まれた書斎とは?
ここまで庭の植物を見てきましたが、牧野の研究は屋外だけで完結していたわけではありません。
庭で植物を観察した後には、調べ、比べ、記録し、絵を描く仕事が待っていました。
その仕事の場所が書斎です。
現在の牧野記念庭園には、博士が使った書斎と書庫の一部が保存されています。
そして、ここで驚くのが蔵書の数。
約4万5千冊。
庭園公式の施設案内によれば、博士の書庫には、それほど多くの書籍が積み上げられていたそうです。[4]
もはや、普通の家庭の本棚という規模ではありません。
植物を見て、調べて、描く。その繰り返し
牧野は、長い生涯の中で膨大な数の植物標本を集め、多くの植物に学名や名前を与えました。
代表的な著作には『牧野日本植物図鑑』があります。
植物図鑑は、植物の名前を並べるだけで完成するものではありません。
葉の形、花の付き方、ほかの植物との違いなどを、文章や図で正確に伝える必要があります。
庭で植物を観察し、書斎で資料を確かめ、植物の姿を描く。
牧野の大泉での生活には、そうした研究の積み重ねがありました。[4]
2023年、当時の書斎の様子が再現された
現在見られる書斎は、当時の状況を伝えるための再現展示です。
保存された書斎と書庫の一部を守る建物は「鞘堂(さやどう)」と呼ばれ、その内部で展示が公開されています。
2023年4月3日に始まった再現展示では、古い蔵書を撮影して制作した複製など、約3,000冊の本が展示されました。
机の上の研究道具や、植物標本を作る際に使われた新聞なども紹介されています。[5]
注意したいのは、当時の本が4万5千冊すべてそのまま並んでいるわけではないということです。
保存された空間と再現展示を通じて、博士がどのような環境で研究していたのかを知る施設なのです。
庭と書斎。
どちらか一方ではなく、両方を見ることで、牧野の研究生活が少し立体的になります。
牧野が亡くなった後、なぜ庭は残されたのか?
牧野富太郎は1957年、満94歳で生涯を終えました。
大泉へ移り住んでから、約31年がたっていました。
ここで、もう一つ気になることがあります。
個人の住居だった場所が、なぜ現在まで庭園として残っているのでしょうか。
大きな転機は、牧野が亡くなった翌年です。
1958年、牧野の自宅跡は練馬区立の庭園として一般公開されました。[3]
その後も庭園は受け継がれ、2008年からの改修を経て、2010年8月にリニューアルオープン。
2019年度には「牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)」として東京都の指定文化財となりました。[2]
つまり、現在の庭園は1926年当時の姿が一切変わらず残っている場所ではありません。
建物の一部を保存し、展示施設を整え、植物を管理しながら、博士ゆかりの庭を未来へ伝えている場所です。
一度なくなった植物が、再び大泉へ戻ってきた
その継承を象徴するような出来事もあります。
庭園にあるヒメアジサイは、かつて一度この庭から姿を消してしまいました。
ところが、牧野の次女・鶴代が高知県立牧野植物園に贈ったヒメアジサイが、向こうで系統保存されていました。
そして2022年、牧野富太郎の生誕160年を記念して、大泉の庭へ里帰りしたのです。[3]
これは、なかなか印象的な話です。
一度失われた植物が、別の場所で守られ、何十年も後に元の庭へ戻ってきた。
植物を保存するという仕事が、単なる理想ではなく、実際に時間を超えてつながった例といえます。
牧野が育てたのは、植物だけではなく、植物を次の世代へ残すための研究だった。
そんな見方も、この庭の歴史から生まれてきます。
2026年で転居100周年。庭が伝える約100年の時間
2026年は、牧野が大泉へ移り住んでから100年という節目の年です。
その歩みを簡単に振り返ってみましょう。
牧野富太郎が土佐国、現在の高知県に生まれる。
5月3日、渋谷から大泉へ。64歳になる年の新しい研究生活が始まる。
膨大な植物標本を収めるため、牧野植物標品館が建設される。
満94歳で生涯を終える。大泉での生活は30年余りに及んだ。
居宅跡が区立庭園となり、一般に公開される。
改修を経て、庭園が再び公開される。
博士の書斎と書庫の一部に、当時の研究環境を伝える展示が整う。
博士が大泉へやってきて100年。庭と研究の歴史が、現在にも受け継がれている。
牧野が引っ越した当時、大泉にはまだ武蔵野の自然が残っていました。
その後、街は住宅地として発展し、駅周辺の景色も大きく変わりました。
そんな中で、牧野が植物を育てた土地が今も残っている。
100年という数字が、庭に立つ木々の背景を教えてくれます。
牧野記念庭園の見どころと見学情報
牧野記念庭園は、西武池袋線・大泉学園駅の南口から徒歩約5分。
入園は無料です。
庭園を散策するだけでなく、記念館で博士の採集道具や植物図を見たり、書屋展示室で研究生活を知ったりすることができます。
2026年10月20日確認。展示やイベントの実施状況は変更される場合があるため、来園前に公式情報をご確認ください。[6]
いつ訪れる?季節で変わる植物たち
牧野記念庭園は、春の花だけを楽しむ場所ではありません。
一年を通して、さまざまな植物の変化を観察できます。
開花時期は例年の目安で、天候によって前後します。庭園公式の季節案内を参考にしています。[3]
2026年秋は、植物をテーマにした企画展も
2026年10月20日時点では、記念館で企画展「海を渡ってきた植物の物語」が開催されています。
会期は2026年9月12日(土)から12月13日(日)まで。
庭の植物を観察するだけでなく、人や地域を越えて植物が移動してきた背景にも目を向けられる企画です。
庭を散策した後に展示を見ると、植物を「その場所に生えているもの」としてだけではなく、長い歴史の中で人と関わってきた存在として考えるきっかけになります。[6]
牧野記念庭園は、ただの植物園ではなかった

最初に気になったのは、なぜ64歳の植物学者が大泉に引っ越し、自宅にこれほど多くの植物を集めたのか、ということでした。
その答えをたどると、牧野と妻が抱いた植物園・標本館の夢に行き着きます。
妻の名前を残すスエコザサ。
研究対象として育てられた多くの植物。
膨大な書籍に囲まれ、観察した植物を記録した書斎。
そして、失われても別の場所で守られ、再び戻ってきたヒメアジサイ。
一つひとつの話を知ると、この庭は「珍しい植物がたくさんある場所」というだけではなくなります。
牧野富太郎が、晩年になっても植物を知ろうとし続けた、その時間が残る場所。
それが牧野記念庭園なのだと思います。
もし大泉学園の街を歩く機会があれば、庭園の一本の木を、いつもより少し長く眺めてみてください。
100年前にこの地へやってきた植物学者も、同じように葉や枝を見つめ、その小さな違いを確かめていたのかもしれません。
ただし、当時とまったく同じ景色が残っているわけではありません。
それでも、植物を観察するという営みは今も続けられます。
そう考えると、住宅街にあるこの小さな庭が、少し大きな場所に見えてきます。
参考資料・出典
-
[1] 練馬区立牧野記念庭園
企画展「牧野富太郎、大泉に来て100年 夢の時間を植えつづけて」
転居日、当時の大泉、植物園・標本館構想、1941年の標品館建設など。
資料ページ
確認日:2026年10月20日 -
[2] 練馬区
「牧野記念庭園(牧野富太郎宅跡)」
牧野の業績、スエコザサ、園内植物、東京都指定文化財など。
練馬区公式ページ
確認日:2026年10月20日 -
[3] 練馬区立牧野記念庭園
「牧野記念庭園について」
開園の歴史、庭園の植物、季節の花、ヒメアジサイの里帰りなど。
庭園公式ページ
確認日:2026年10月20日 -
[4] 練馬区立牧野記念庭園
「施設案内」
記念館、書屋展示室、約4万5千冊の蔵書、書斎の保存状況など。
施設公式ページ
確認日:2026年10月20日 -
[5] 練馬区
「牧野記念庭園書斎再現展示 4月3日から公開!」
2023年の書斎再現、約3,000冊の展示、資料の複製と復元について。
練馬区公式ページ
確認日:2026年10月20日 -
[6] 練馬区立牧野記念庭園
「公式サイト・利用案内・展示情報」
開園時間、休園日、入園料、アクセス、2026年秋の企画展など。
公式サイト
確認日:2026年10月20日
最終情報確認日:2026年10月20日。本文は公開資料に基づいて構成しています。歴史的事実と、そこから読み取れる意味・解釈を区別して記述しました。