
埼玉県飯能市の山奥に、樹齢約800年、高さ約37メートルという巨大なイチョウが立っています。
そのすぐそばには、大きな不動堂。ここは「関東三大不動」の一つに数えられる高山不動尊(高貴山常楽院)です。
でも、少し不思議ではないでしょうか。
千葉県の成田不動尊、東京都の高幡不動尊といえば、多くの参拝者が訪れる有名なお寺。その二つと並び称されるお寺が、なぜ奥武蔵の山の中にあるのでしょう。
しかも、ここで長く大切にされてきたものを調べると、仏像だけではなく、山の地形、修行の歴史、そして一本のイチョウがつながってきます。
どうやら、この場所は単に「山の上に建てられたお寺」ではなさそうです。
最終情報確認:2026年10月20日
高山不動尊は、古くから山そのものを信仰と修行の場としてきた、奥武蔵を代表する山岳寺院です。山奥という立地は、この寺の歴史を理解するための大切な手掛かり。そして境内の巨大イチョウには、「子育てイチョウ」という、もう一つの名前があります。 [1][2]
なぜ関東三大不動が、こんな山奥に?

まず、高山不動尊の正体から確かめてみましょう。
正式には高貴山常楽院(こうきざん・じょうらくいん)といい、真言宗智山派の寺院です。
奥むさし飯能観光協会では、千葉県の成田不動尊、東京都の高幡不動尊と並ぶ「関東三大不動」の一つとして紹介しています。 [1]
ここで気になるのは、その立地です。
成田山新勝寺や高幡不動尊には鉄道で比較的アクセスしやすい一方、高山不動尊へ向かうには奥武蔵の山道を通る必要があります。
どうして、わざわざ山の中なのでしょう。
手掛かりは、昔の人々にとっての「山」の意味にあります。
現代では山を登山やハイキングの目的地として考えることが多いですが、古くから日本では、山や森林、水源などの自然そのものが信仰の対象となってきました。
そこに仏教の修行が結びつき、山に入り、厳しい自然の中で修行をする「修験道(しゅげんどう)」が発展しました。
飯能市の歴史資料でも、高山不動を山間部の代表的な信仰の場として紹介しています。 [3]
山奥だから不便なのではなく、山だからこそ意味があった。
高山不動尊は、かつて山伏たちの修験道場として栄えたと伝えられています。
山伏とは、山中で修行を行う修験道の行者のこと。険しい山道や滝なども、修行と深く関わる場所でした。
つまり高山不動尊の場合、街から離れていることは寺の特徴を弱めるものではありません。
むしろ、周囲の山々を含めて信仰の世界が広がっていたと考えると、その立地に納得がいきます。
ただし、現在の堂宇がこの位置に置かれた具体的な経緯まで、すべてが明らかになっているわけではありません。
それでは、この山に人々が集まり始めたのは、いったいいつ頃なのでしょうか。
開山654年。でも、寺の始まりには少し不思議な点がある
白雉5年|654年高山不動尊は、白雉5年(654年)に開山したと伝えられています。 [1]
654年といえば飛鳥時代。奈良に大仏が造られるよりも、ずっと前です。
これだけ聞くと、実に1370年以上の歴史を持つお寺ということになります。
ところが、ここには少し注意したい点があります。
「654年に開山したと伝わること」と「654年に現在の寺が創建されたと証明されていること」は、同じではありません。
飯能市の歴史文化に関する資料では、創建年代は明確ではないとされています。
古い寺院の歴史を調べるときには、こうした伝承と、実際に残る資料を分けて考えることが大切です。
では、高山不動尊が本当に古くから信仰されてきたことを示す、確かな手掛かりはあるのでしょうか。
あります。
しかも、それは寺に残された一体の木彫仏像です。
高山「不動」なのに、国の重要文化財は別の明王?

高山不動尊には、国の重要文化財に指定されている仏像があります。
その名は、木造軍荼利明王立像(もくぞうぐんだりみょうおうりゅうぞう)。
ここで、少し意外なことが起こります。
名前は「不動尊」なのに、重要文化財として紹介される仏像は「不動明王」ではなく、「軍荼利明王」なのです。
名前を間違えたわけではありません。
軍荼利明王は、不動明王とともに五大明王に数えられる仏教の尊格です。
飯能市の文化財解説によると、高山不動に伝わる軍荼利明王像は、高さ228.8センチメートル。
顔は一つ、目は二つ、腕は八本。そして両手足には赤い蛇が巻きつくという、独特の姿をしています。 [4]
この蛇は、単なる飾りではありません。飯能市の説明では、外からの災いや呪いを打ち払う意味を示すとされています。
そして、この仏像の重要性は迫力のある姿だけではありません。
ヒノキの一本の木材を中心に彫り出す「一木造」という技法で造られ、飯能市は、その様式などから遅くとも11世紀頃までに造られた作品とみています。 [4]
654年の開山伝承を、そのまま証明するものではありません。
それでも、約1000年前にさかのぼる仏像がこの寺に伝わっているという事実は、高山不動尊の古い信仰を物語る大きな手掛かりになります。
木造軍荼利明王立像は、普段は公開されていません。文化財があることと、参拝時に実物を見られることは別です。特別公開の有無については、寺院への事前確認が必要です。 [4]
長い年月の中で、仏像を守り、信仰をつないできた人々がいたことが分かります。
そして、この寺には人間の歴史よりも、さらに長い時間を思わせるような存在があります。
石段の入口に立つ、大きなイチョウです。
樹齢800年。巨大イチョウが「子育て」と呼ばれる理由

高山不動尊の大イチョウは、埼玉県指定天然記念物です。
飯能市の資料によると、その大きさは次のとおりです。
高さ37メートルは、一般的な建物でいえば10階建て前後に相当する高さです。
幹の周囲も約10メートル。大人が一人で抱えることなど、とてもできない大きさです。
そして、この木にはもう一つの名前があります。
「子育てイチョウ」。
なぜ、イチョウが子育てなのでしょう。
実は、その答えは枝や葉ではなく、幹から垂れ下がるものにあります。
幹から垂れ下がる、不思議な形
高山不動の大イチョウには、幹や枝から乳房のような形をした突起が垂れ下がっています。
こうしたものは、一般に「乳(ちち)」などと呼ばれ、イチョウに見られる特徴的な構造です。
飯能市の解説では、この形を女性の乳房に見立てたことから、母乳がよく出るよう祈願する信仰につながったと考えられています。 [2]
巨木の名前の由来は、その大きさではなく、幹の形にあったのです。
昔の人々にとって、子どもを無事に育てることは、今以上に切実な願いだったことでしょう。
もちろん、木に祈願することで母乳の分泌が改善するという医学的効果が確認されているわけではありません。
ここで伝えられているのは、子どもの健やかな成長を願い、巨大な木に祈りを託してきた人々の信仰です。
巨大なイチョウは、ただの自然景観ではなかったのですね。
1947年(昭和22年)3月25日には、埼玉県の天然記念物に指定されました。 [2]
そして、このイチョウが立っている位置にも注目してみましょう。
木があるのは、不動堂へ向かう石段の登り口、その崖の上です。
つまり参拝者は、お堂へ向かう途中で、この巨木と出会うことになります。
山の中で修行を重ねる人々の信仰と、子どもの成長を願う人々の信仰。
一つの境内に、異なる願いの形が残されているのです。
この寺は、かつてもっと高い場所にあった?
高山不動尊の山岳寺院らしさを、さらに強く感じさせる場所があります。
現在の境内から山道を登った先にある、関八州見晴台(かんはっしゅうみはらしだい)です。
標高は約771メートル。
奥むさし飯能観光協会のハイキング案内によれば、かつて高山不動尊の不動堂は、現在の関八州見晴台にあたる場所にあったとされています。 [5]
つまり、現在の大きなお堂がある場所だけが、高山不動尊の歴史の舞台ではないのです。
さらに高い尾根の上にも、信仰の歴史が続いています。
「関八州」とは、どこまでのこと?
関八州とは、江戸時代以前の関東地方を表す八つの国の呼び方です。
武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸。
現在の都県でいうと、東京、埼玉、神奈川、千葉、群馬、栃木、茨城などにまたがる地域です。
関八州見晴台は、こうした関東の国々を望めたことから名付けられたと伝えられています。 [5]
もちろん、現在は天候や樹木の状態によって見える範囲も変わります。「八つの国が必ず全部見える」という意味ではありません。
ただ、この名前から分かることがあります。
現代の地図では山に囲まれた場所に見える高山不動尊ですが、その山の上には、関東の広がりを見渡す場所があったのです。
ここで、最初の疑問が少し違って見えてきます。
「なぜ、こんな奥まった場所に有名なお寺があるのか」
その答えは、街から遠いことだけで考えていても見つかりません。
山を登り、祈り、眺める。その一連の場所が、長く信仰の対象となってきた。
そう考えると、高山不動尊の立地はずいぶん自然なものに思えてきます。
現在の大きなお堂も、最初からあったわけではない
高山不動尊で印象的なのは、山中に建つ堂々とした不動堂です。
しかし、654年の開山伝承があるからといって、現在のお堂が飛鳥時代からそのまま残っているわけではありません。
奥むさし飯能観光協会によれば、現在の不動堂は幕末に再建された建物です。 [5]
長い寺の歴史の中で、建物が建て直され、信仰が受け継がれてきたことが分かります。
ここまでの話を並べてみると、面白い時間の重なりが見えてきます。
飛鳥時代にさかのぼる開山の伝承。平安時代のものとされる木造の明王像。推定樹齢800年の大イチョウ。そして、幕末に再建された現在のお堂。
全部が同じ時代のものではありません。
むしろ、それぞれ異なる時代から残ったものが、今は一つの境内に集まっているのです。
寺の歴史を「創建から何年」と一本の数字にまとめてしまうと、見逃してしまう面白さがあります。
高山不動尊は、一つの古い時代を保存した場所というより、いくつもの時代の信仰が重なった場所といえるでしょう。
高山不動尊へはどう行く?西吾野駅からは本格的な山歩き
ここまで読んで、実際に高山不動尊へ行ってみたくなった方もいるかもしれません。
ただし、一つ大切なことがあります。
高山不動尊は、駅から気軽に数分歩いて到着する観光寺院ではありません。
西武秩父線の西吾野駅から、高山不動尊へ向かうハイキングルートがあります。
奥むさし飯能観光協会が紹介する「高山不動と関八州見晴台コース」は、全体で約13.3キロメートル。
紹介ルートでは、西吾野駅から高山不動尊までの行程の一部に、山道を約100分歩く区間も設定されています。さらに関八州見晴台へは、追加の登り道が続きます。 [5]
途中には坂道や山道があり、季節や天候によって足元の状況も変わります。
イチョウの黄葉を見るためだけでも、山歩きに適した服装と靴で計画することが大切です。
寺院には駐車場もありますが、周辺は山間部の道路です。車で向かう場合も、道路状況や駐車場所を事前に確認してください。
特に秋は日没が早くなります。帰り道の時間まで含めて、余裕のある行程を考えましょう。
高山不動尊(常楽院)基本情報
安全について: 山道には急坂や滑りやすい箇所があります。雨天後の路面、落石、倒木、野生動物の出没情報などを事前に確認してください。クマへの注意も必要な山域です。携帯電話の電波が届かない場所も想定し、複数人での行動や家族への行程共有など、基本的な登山対策をおすすめします。
山の中の大イチョウが、少し違って見えてくる
最初に気になったのは、山の中に立つ巨大なイチョウと、関東三大不動の一つに数えられるお寺の組み合わせでした。
どうして、こんな山奥にあるのだろう。
その疑問をたどると、山で修行を重ねた人々の歴史があり、古い仏像があり、子どもの健やかな成長を願う人々の信仰がありました。
樹齢約800年のイチョウも、単に「とても大きな木」というだけではありませんでした。
幹から垂れ下がる独特の形を、人々は母乳と重ね合わせ、「子育てイチョウ」と呼んできました。
山を修行の場として大切にする人。仏像に手を合わせる人。子どもの成長を願って木に祈る人。
それぞれの願いが、時代を越えて同じ場所に残されています。
そう考えると、石段の入口にそびえる巨大なイチョウも、少し違って見えるかもしれません。
800年という時間の長さ以上に、その木に向き合ってきた人々の時間が、ここには積み重なっているのです。
この山の物語を、もう少し先へ
参考資料・出典
最終確認日:2026年10月20日。本文では、開山伝承、文化財の年代推定、信仰上の言い伝えを区別して記載しています。公開条件や山道の状態は変更される場合があります。
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高山不動尊(高貴山常楽院)
発行:奥むさし飯能観光協会
https://hanno-tourism.jp/history/c005/
確認日:2026年10月20日 -
高山不動の大イチョウ(県指定)
発行:飯能市・飯能市立博物館
https://www.city.hanno.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikubu/hakubutsukan/bunkazaitanto/bunkazai/tennen/6708.html
確認日:2026年10月20日 -
飯能の歴史
発行:飯能市
https://www.city.hanno.lg.jp/kanko_bunka_sports/museum/chiikinorekishi/4980.html
確認日:2026年10月20日 -
木造軍荼利明王立像(国指定)
発行:飯能市・飯能市立博物館
https://www.city.hanno.lg.jp/kanko_bunka_sports/bunkazai/3/1/8058.html
確認日:2026年10月20日 -
高山不動と関八州見晴台コース
発行:奥むさし飯能観光協会
https://hanno-tourism.jp/hiking/h011/
確認日:2026年10月20日