江古田の千川通りはなぜ曲がっている?千川上水の跡から街の形を歩く
江古田駅の南側を東西に延びる千川通り。地図を眺めると、一直線の幹線道路というより、ところどころでゆるく向きを変えながら街を横切っています。その背景をたどると見えてくるのが、かつてこの一帯を流れていた「千川上水」です。現在は道路や地下の水路になって姿を消していますが、江古田には上水が地上を流れていた時代を伝える記録や石碑が残っています。
最終確認:2026年8月16日|練馬区・練馬区立石神井公園ふるさと文化館・西武鉄道などの公開情報を確認
千川上水は1696年に玉川上水から分水して造られた人工の上水路です。練馬から板橋、巣鴨方面へ延び、江古田周辺でも現在の千川通りに沿うように流れていました。昭和期に暗渠化され、地上の水路は道路景観の中へ消えていきました。現在の道路の曲がり方すべてを「川が原因」と断定することはできませんが、旧道と上水が寄り添って形成された古い線形を今の街路に重ねて歩けるのが江古田の面白さです。
千川上水が玉川上水から分水され開削。
現在の千川通り周辺を上水が流れていました。
水面は見えなくなっても、記録・地形・石碑に痕跡が残ります。
点数ではなく、この場所の特徴を6方向の感覚で表しています。
交通の便利さ
江古田駅から千川通りまで徒歩で回りやすい
日常の買い物
大学と商店街が集まる街歩きエリア
外食・カフェ
千川上水や分水の歴史をたどれる
子育て環境
飲食店や休憩先を組み合わせやすい
自然・散歩
石碑や暗渠など街の痕跡探しが主役になる
地域のにぎわい
千川通りは交通量があるため歩行時は注意したい
そもそも千川上水とは?「川」ではなく江戸の人工水路
名前に「川」とありますが、千川上水は自然河川ではありません。練馬区の資料によると、元禄9年(1696年)に玉川上水から分水して造られた上水路です。本郷・下谷・浅草方面への飲料水供給を目的とし、練馬から板橋を経て巣鴨方面へ延びていました。
開通後には沿線の村々へ農業用水として分水されるようになり、江古田周辺にも複数の分水が存在しました。練馬区の資料では、現在の旭丘1丁目付近から南西方向へ伸びた「江古田村分水」も確認されています。
江古田は「一本の川」ではなく、水路ネットワークの街だった
千川上水を幹線とすると、そこから地域へ向かって細い用水が枝分かれしていました。つまり江古田で水の痕跡を探す場合、千川通りだけを見るより、周囲の細い路地や濯川、かつての分水ルートまで視野を広げたほうが街の立体感が見えてきます。
千川通りは本当に「昔の千川上水の跡」なの?
江古田では、その関係をかなり具体的に確認できます。練馬区が公開する「千川通り・江古田交差点」の古写真には、現在の旭丘一丁目65番付近にあたる五差路と、千川上水沿いに植えられた桜・楓を記念する石碑が写っています。
さらに、1952年ごろに撮影された練馬区の千川上水記録フィルムには、「千川通りと江古田銀座の分岐点からやや東方」の千川上水と、当時の旧江古田町の街並みが記録されています。現在の街路と水路の位置関係を考えるうえで、とても分かりやすい資料です。
千川通りは、古くからの清戸道と千川上水が並行していた区間などを含みます。現在の車道の全幅がそのまま昔の水路だったわけではありません。「古い道と人工水路が並んで延び、その線形が現在の街路に受け継がれている」と見ると、実際の歴史に近い街歩きになります。
では、なぜ江古田の道はゆるく曲がって見える?
現代の都市計画で新しく造る道路なら、条件が許せば直線的な道路を引けます。一方、江古田周辺には近代以前から続く道筋や水路がありました。
千川上水も、地形上の高低差を利用しながら水を流す必要がある人工水路です。そのため、現在の地図を見ながら千川通りをたどると、交差点ごとに微妙に方向を変える場所があります。
ただし、現在見える個々のカーブについて「この曲線は千川上水が作った」と公式資料が一つずつ認定しているわけではありません。 江古田の面白さは、旧上水・旧道・分水・後世の道路整備が重なった結果として、現在の街路を読み解ける点にあります。
水が消えたのはいつ?昭和の江古田ではまだ上水が見えていた
練馬区は、昭和27年(1952年)に千川上水をカラー写真で記録しています。当時はすでに暗渠化工事が始まっており、水路が消える前の姿を後世へ残す目的で撮影されたものです。
記録には畑、木造の商店、橋、分水口、水車や工場などが写り、現在の交通量の多い千川通りとはまるで違う景色が広がっています。江古田周辺を含む千川上水はその後、昭和期の暗渠化によって地上から次第に姿を消していきました。
千川上水沿いは、かつて桜の名所でもあった
大正4年(1915年)、大正天皇の即位を記念して千川上水の堤に桜と楓が植えられました。練馬区の資料では桜は約1,600本に及んだとされ、花見客や露店でにぎわい、「新小金井」と呼ばれるほどだったと紹介されています。
江古田交差点付近にあった「千川堤植桜楓碑」は、現在は江古田浅間神社の境内へ移されています。水路そのものが見えなくても、その時代を示す物証が駅のすぐ近くに残っているわけです。
江古田駅から歩くなら?千川上水の痕跡を探すミニ散歩
西武池袋線の江古田駅からスタート。南側へ出ると千川通り方面へ向かいやすくなります。
「千川堤植桜楓碑」を確認。現在の街から、上水沿いに桜が並んでいた時代を想像できるポイントです。
五差路と道路の向きを観察。昭和31年の写真と現在を比べると街の変化が分かりやすくなります。
千川上水から分かれた中新井分水の系譜を感じられるエリア。水路が一本ではなかったことが見えてきます。
| 見るポイント | 注目したいもの | 楽しみ方 |
|---|---|---|
| 千川通り | 道路の向き・交差点 | 古地図や昔の写真と重ねて見る |
| 江古田浅間神社 | 千川堤植桜楓碑 | かつての桜並木を想像する |
| 旭丘周辺 | 旧千川上水と分水 | 細い路地にも注目する |
| 武蔵大学周辺 | 濯川・中新井分水 | 江古田の水路網として歩く |
SOCIAL VOICES|暗渠好きは江古田をどう見ている?
街歩きのあとに食事をするなら
江古田は大学が集まる学生街で、駅周辺には飲食店が多いのも特徴です。千川上水跡を歩いたあと、そのまま江古田で夕食まで楽しむなら、駅周辺で予約できる店を先に比較しておく方法もあります。
一休.comレストランでは、江古田駅周辺のフレンチ、居酒屋、日本料理など予約可能な店舗が掲載されています。予約できる店舗やプランは変わるため、利用日が決まっている場合に確認してください。
一休.comレストランで江古田駅周辺のディナーを確認するこんな人におすすめ
何気ない道路や路地から昔の水路を読み解きたい人向け。
普段の景色を「水」という別の視点で見直せます。
江戸の上水、大正の桜並木、昭和の暗渠化まで一本につながります。
水消えて
曲がる道には
江戸の影
江古田駅周辺もあわせて見る
Q&A|江古田と千川上水で気になること
A. 正確には自然の川ではなく、1696年に造られた人工の「千川上水」です。江古田周辺では現在の千川通り沿いを流れていたことが公的な記録や写真で確認できます。
A. 江古田付近では大部分が暗渠となり、かつてのような水面は見られません。ただし、上流側には開渠として残る区間があり、江古田周辺には石碑や分水の痕跡があります。
A. 旧上水と古い道筋が現在の街路形成に関わっていることは確認できますが、現在のすべてのカーブについて「上水が原因」と断定できる資料は確認できません。旧道・水路・後世の道路整備が重なった街路として見るのが適切です。
A. はい。江古田浅間神社、千川通り、旭丘、武蔵大学周辺などを組み合わせれば徒歩で街の痕跡を探せます。千川通りは車や自転車の交通があるため、周囲を確認しながら歩いてください。
A. 江古田村分水は千川上水から枝分かれした用水です。練馬区の資料では旭丘1丁目付近から南西へ伸び、現在の中野区側にあった江古田村の水田を潤していたとされています。
まとめ|江古田の道路を見ると、消えた水路が浮かび上がる
江古田の千川通りを毎日歩いていても、そこに300年以上前から続く水の歴史が重なっていることにはなかなか気づきません。
1696年に造られた千川上水。そこから枝分かれした江古田村分水や中新井方面への用水。大正時代には桜が並び、昭和の初めまでは水面のある風景が日常でした。そして暗渠化された現在、水そのものはほとんど見えません。
だからこそ、千川通りのわずかな曲がり、五差路、細い路地、神社に移された石碑が面白く見えてきます。
江古田は、道を歩くだけで昔の「水の地図」を想像できる街です。
参照・確認した主な資料
- 練馬区立石神井公園ふるさと文化館|千川上水の歴史
- 練馬区立石神井公園ふるさと文化館|千川上水が暗きょに
- 練馬区|千川通り・江古田交差点
- 練馬区|千川上水の記録フィルム
- 練馬区立石神井公園ふるさと文化館|千川上水の分水を訪ねて(2)
- 練馬区|千川上水跡
- 西武鉄道|江古田
※旧水路・街路の位置関係は、公的資料で確認できる事実と現代の街路から読み取れる要素を区別して記載しています。現地の道路状況や施設情報は変更される場合があります。
