
所沢の畑のそばに残る、小さな塚。
その名前は「白旗塚」。
実はここ、鎌倉幕府が滅びるきっかけとなった戦いの舞台なのです。
歴史の舞台:1333年5月11日|所在地:埼玉県所沢市北野|情報確認日:2026年10月20日
西武池袋線の小手指駅から離れた北野地区。住宅地や畑が広がる一角に、「小手指ヶ原古戦場」の石碑があります。
そして、その近くにあるのが「白旗塚(しらはたづか)」。
白い旗の塚?
名前だけなら、何かのお祭りの名残にも聞こえます。
しかし、この白旗は、約700年前の戦いにつながっています。
1333年。新田義貞(にったよしさだ)という武将が鎌倉幕府を倒すために兵を挙げ、所沢の小手指ヶ原で幕府軍と激突しました。 [1]
それからわずか11日後、鎌倉幕府は滅亡します。
えっ、あの鎌倉幕府が?
教科書で習った大事件が、所沢の畑のそばから始まっていたとは、なかなか意外です。
小手指ヶ原は、新田義貞軍が鎌倉幕府軍と初めて激突した場所。 白旗塚には、義貞が陣を構え、源氏の白い旗を掲げたという伝承が残っています。ただし、旗を立てた具体的な行動そのものが証明されているわけではありません。 [2]
ここで一つ、気になることがあります。
鎌倉を攻めるのに、なぜ所沢で戦う必要があったのでしょうか。
なぜ鎌倉幕府を倒す戦いが、所沢で始まったのか?

まず見ておきたいのが、当時の道です。
今では所沢から鎌倉へ向かうなら、電車や車で移動する人が多いでしょう。
しかし、鎌倉時代の重要な交通路は「鎌倉街道」でした。
鎌倉街道といっても一本の道路ではなく、各地から鎌倉へ通じる道の集まり。その中でも、武蔵国を南北に走る「上道(かみつみち)」は、軍勢が移動するうえで重要なルートでした。
小手指ヶ原は、この街道沿いに位置しています。 [3]
つまり、小手指ヶ原が戦場になったのは、ただの偶然ではありません。
鎌倉へ進もうとする軍勢と、それを食い止めようとする幕府軍。
両者が出会う場所として、この街道は重要だったのです。
今の所沢では生活の道。
約700年前には、鎌倉の運命を左右する軍勢が通る道でした。
そして、そこを南下してきたのが新田義貞でした。
最初はわずか150騎ほど? 新田義貞の軍勢はどう増えた?

新田義貞は、上野国(こうずけのくに)、現在の群馬県太田市周辺を本拠地とする武将です。
源氏の一族でありながら、当時の鎌倉幕府に対して挙兵しました。
所沢市の文化財解説によれば、義貞が新田荘を出発したのは1333年5月8日。
このときの軍勢は、最初は約150騎だったと伝えられています。 [1]
150騎。
一国の政治を動かす戦いを始める人数としては、少なく感じられます。
ところが、義貞が南へ進むにつれて、沿道の武士たちが次々と加勢していきました。
最初から巨大な軍隊を率いていたのではなく、進軍しながら味方が増えていったのです。
これは重要な手掛かりです。
鎌倉幕府に対する反発が、義貞の挙兵をきっかけに武士たちの行動として表れていったことが分かります。
もちろん、当時の軍勢の人数を現在の統計のように正確に数えることはできません。
それでも、少数で出発した義貞軍が勢力を拡大しながら鎌倉へ迫ったという展開は、この戦いを理解するうえで欠かせません。
そして5月11日、義貞軍と鎌倉から迎撃に出た幕府軍は、小手指ヶ原で衝突します。
小手指ヶ原の戦いは、どれほど激しかったのか?
1333年5月11日。
鎌倉幕府軍と新田義貞軍が、小手指ヶ原で初めて本格的にぶつかりました。
所沢市は、この戦いを一進一退の激戦だったと説明しています。 [1]
一進一退とは、どちらかが一方的に勝ったのではなく、攻めたり押し返されたりを繰り返すこと。
ここで重要なのは、新田義貞軍が簡単に勝ったわけではないという点です。
鎌倉幕府は長く東国を支配してきた武家政権。義貞の軍勢が勢いを増していたとしても、迎え撃つ幕府軍が無抵抗だったわけではありません。
軍勢は衝突し、激しい戦いが続きます。
それでも義貞軍の進軍は止まりませんでした。
幕府軍は徐々に南への進路を許すことになります。
そして、この戦いは軍記物語『太平記』にも描かれる、鎌倉幕府滅亡へ向かう重要な場面となりました。
鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代の争乱などを描いた軍記物語です。合戦の展開や武将たちの姿を伝える重要な作品ですが、文学的な演出も含まれます。記された軍勢の人数や戦闘の細部を、すべて確定した史実として読むことはできません。
ここで、最初の「白旗塚」に話を戻しましょう。
これほど激しい戦いが行われた場所に、なぜ「白い旗」の名前が残ったのでしょうか。
なぜ白旗? 降参ではなく、源氏の旗印だった

「白旗」と聞くと、現代では降参の合図を思い浮かべるかもしれません。
でも、ここでは意味が違います。
白旗は、源氏を象徴する旗印だったのです。
新田義貞は源氏の一族。
所沢市の説明によると、小手指ヶ原古戦場の石碑から畑の中の細い道を進んだところにある白旗塚には、義貞が陣を構え、源氏の白い旗を掲げたという伝承が残されています。 [2]
つまり、降伏の白旗ではなく、戦う側の白旗。
同じ白い布でも、歴史の中ではずいぶん意味が変わるものです。
さらに面白いのは、新田義貞が戦った相手も、源氏の歴史と深く関係する鎌倉幕府だったことです。
鎌倉幕府を開いた源頼朝も源氏の武将でした。
ただし、1333年当時、幕府の実権を握っていたのは北条氏です。
かつて源頼朝が築いた幕府に対して、別の源氏の一族である新田義貞が戦いを挑む。
「源氏だから幕府の味方」と単純にはいかないところが、歴史の複雑で面白い部分です。
本当に義貞は、この塚に旗を立てたの?
ここは、事実と伝承を分けておきたいところです。
白旗塚に義貞が陣を構えたという話は、所沢市も紹介している地域の伝承です。
一方で、義貞本人がいつ、どの位置に旗を立てたのかを、現在確認できる資料だけで断定することはできません。
それでも、この土地に「白旗塚」という名前が受け継がれ、義貞の伝承とともに残ってきたことには意味があります。
昔の人たちは、合戦を忘れないための手掛かりとして、土地の名前や塚の物語を伝えてきたのかもしれません。
これは史実として確認された意図ではなく、残された伝承から読み取れる一つの見方です。
所沢での激突から、わずか11日で鎌倉幕府は滅んだ

ここまで聞くと、小手指ヶ原で勝負が決まり、そのまま鎌倉幕府が倒れたようにも感じられます。
ですが、実際にはそう単純ではありません。
小手指ヶ原は始まりでした。
決着に至るまでには、さらに複数の戦いが待っていたのです。
新田義貞、上野国で挙兵
新田荘を出発。沿道の武士が加勢し、軍勢は徐々に増えていきました。
小手指ヶ原の戦い
現在の所沢市で、義貞軍と鎌倉幕府軍が初めて激突。一進一退の激戦となりました。
久米川方面で再び合戦
戦いの舞台は南へ移ります。現在の東村山市周辺にも、新田義貞ゆかりの伝承地が残ります。
分倍河原の戦い
現在の東京都府中市周辺で激戦。義貞軍は一度苦戦しますが、戦いの流れを変えて進軍を続けました。
鎌倉幕府の滅亡
鎌倉に攻め込まれた北条高時らが東勝寺で自害。鎌倉幕府は終わりを迎えます。
5月11日から22日まで、わずか11日間。
もちろん、鎌倉幕府の滅亡は義貞軍だけで起こしたものではありません。各地で幕府に反対する動きが起こり、京都では足利高氏(後の尊氏)らも幕府打倒に動いていました。
つまり、幕府の支配を支えていた仕組みが、各地で急速に崩れていた時期だったのです。
その中で、小手指ヶ原の戦いは鎌倉に向かう義貞軍の最初の大きな関門でした。 [1] [3]
ここで戦いが終わったのではない。
ここから、鎌倉幕府の終わりへ向かう戦いが本格化した。
そう考えると、小手指ヶ原の位置づけがはっきりしてきます。
実は一度きりではない。なぜ小手指ヶ原は何度も戦場になった?

ここで、もう一つ意外な事実があります。
小手指ヶ原は、1333年の一度だけ戦場になった場所ではありません。
所沢市の歴史解説によれば、鎌倉幕府滅亡後にも、この一帯では合戦が起きています。 [3]
1335年、中先代の乱
鎌倉幕府が滅んでから、わずか2年後。
北条氏の生き残りによる反乱「中先代(なかせんだい)の乱」が起こります。
鎌倉幕府を倒したからといって、武士たちの争いが終わったわけではなかったのです。
1352年、武蔵野合戦
さらに約20年後、今度は新田氏と足利氏の勢力をめぐる戦いの中で、小手指ヶ原周辺が再び合戦の舞台となりました。
では、なぜ何度も同じ地域で戦いが起こるのでしょう。
ここで思い出したいのが、最初に登場した鎌倉街道です。
南北を結ぶ重要な道は、一度政権が変わっても消えません。
武士たちの勢力争いが続く限り、軍勢が移動する交通の要所は、再び戦いの舞台になり得ます。
小手指ヶ原が繰り返し戦場になった背景には、鎌倉街道沿いという地理的な条件がありました。
歴史が繰り返されたというより、重要な道が変わらずそこにあった。
そう考えると、複数の合戦が同じ土地に残っている理由にも納得できます。
城も巨大な石垣もない。それでも何が残っている?
これほど大きな歴史の舞台なら、立派な城跡や大きな記念施設があると思うかもしれません。
しかし、小手指ヶ原で歴史を伝えているのは、主に石碑、塚、そして土地に残る名前や伝承です。
所沢市北野二丁目には「小手指ヶ原古戦場」の石碑が立っています。
そこから畑の中の細い道を進むと、白旗塚があります。 [2]
現在の景色から、1333年当時の軍勢の配置や戦闘の様子をそのまま読み取ることはできません。
それでも、石碑と白旗塚を合わせて見ることで、広い地域が古戦場だったという事実と、義貞にまつわる伝承を別々の手掛かりとして確かめられます。
ちなみに、小手指ヶ原古戦場は1961年9月1日に埼玉県の指定旧跡となっています。 [1]
旧跡とは、歴史上の出来事や人物との関係が伝わる場所を、文化財として位置づけるものです。
そこに戦いの道具や建物が大量に残っていなくても、場所自体が歴史を伝える役割を持っています。
派手な遺構がないからこそ、石碑の存在が大切になる。
小手指ヶ原は、そんな古戦場なのです。
白旗塚を古墳の可能性がある塚として紹介する資料もあります。ただし、所沢市の公式な景観資源解説では、義貞が旗を掲げたという伝承を中心に紹介しており、古墳と確定する説明はしていません。
塚の築造年代や本来の用途を、現段階で断定することは避けるべきでしょう。なお、足立区にある同名の「白旗塚古墳」とは別の場所です。
白旗塚と小手指ヶ原古戦場を訪ねるには?
小手指ヶ原古戦場は、所沢市北野地区にあります。
観光施設として整備された大きな公園ではなく、畑や地域の道路に接した史跡です。
目印となるのは、小手指ヶ原古戦場の石碑と、近くの所沢市立埋蔵文化財調査センター。
石碑から白旗塚へ進む際は、所沢市が案内する畑の中の細い道をたどります。
小手指ヶ原古戦場・白旗塚 基本情報
白旗塚:所沢市北野2丁目12番地の7
指定日:1961年9月1日
なお、この一帯だけでなく、久米川や八国山方面にも新田義貞に関係する史跡・伝承地が残ります。
時間に余裕があれば、所沢から東村山方面へ、かつての軍勢の移動を地図で追いながら歩くのも一つの楽しみ方です。
あの小さな白旗塚は、何を伝えているのか
最初に見た「白旗塚」という名前。
白い旗といえば降参の合図、という印象があったかもしれません。
しかし、ここに伝わる白旗は、新田義貞が掲げたとされる源氏の旗印でした。
さらに調べると、なぜ所沢で戦いが起きたのかも見えてきました。
鎌倉へ続く街道があり、そこを南下する義貞軍を幕府軍が迎え撃った。
1333年5月11日に始まった戦いは、その後も南へ続き、11日後には鎌倉幕府が滅亡します。
そして、政治の中心が変わっても、街道の重要性はすぐには変わらず、この土地は再び戦場となりました。
義貞が実際に旗を立てた瞬間を、確かな史実として再現することはできません。
けれども、ここが鎌倉幕府滅亡に至る戦いの舞台であったことは、歴史資料が伝えています。
今の小手指ヶ原には、鎧を着た武士の姿も、軍勢の旗もありません。
残るのは石碑と、塚と、畑の間を通る道。
それでも「白旗塚」という名前を知ってから見ると、ただの小さな塚ではなくなります。
約700年前、鎌倉へ向かう軍勢がこの土地を通り、日本の歴史が大きく動き始めた。
その記憶を、所沢の一角で今も伝えている場所なのです。
参考資料・出典
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所沢市教育委員会「小手指ヶ原古戦場」
埼玉県指定旧跡の解説。新田義貞の挙兵、150騎ほどでの出発、1333年5月11日の戦い、鎌倉幕府滅亡までの経緯を参照。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/kenshiteibunkazai/bunzai_20100420150030643.html -
所沢市「85番 白旗塚」
白旗塚の場所、新田義貞の布陣、源氏の白旗に関する伝承を参照。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/kurashi/jutaku/keikan/mijikanakekan/keikanshigen/ichiran/shiteiichiran/shirahataduka.html -
所沢市「鎌倉街道と小手指ヶ原古戦場」
鎌倉街道沿いの地理的背景、1333年の合戦、その後の中先代の乱・武蔵野合戦に関する解説を参照。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/rekishi/rekishimonogatari/rekishimonogatarishortcut/dasc2_1.html -
所沢市「小手指ヶ原古戦場(こてさしがはらこせんじょう)」
古戦場碑と白旗塚の位置関係、義貞に関する地域の伝承を確認。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/kids/shokai/meisyokyuseki/kotesashigaharakosenjouato.html -
所沢市「小手指地区のとことこ景観資源指定一覧」
白旗塚の所在地、景観資源としての位置づけを確認。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/kurashi/jutaku/keikan/mijikanakekan/keikanshigen/ichiran/kotesashitiku.html -
所沢市「将軍塚」
八国山、鎌倉街道上道、新田義貞に関する伝承と周辺の戦いを参照。
https://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/kanko/douhyou/hatikokuyama_osanpocourse/syogunduka.html
情報確認日:2026年10月20日
※本記事は所沢市の文化財・歴史資料を中心に編集しています。『太平記』に描かれる戦いの細部と地域の伝承については、確定した史実と区別して記載しています。見学ルートや現地の立ち入り状況は変更される場合があります。