
その本社は、なぜ田無にある?
1936年の工場建設から90年。腕時計の歴史を変えてきた企業と、西武線沿線の意外な関係。
腕時計の文字盤に刻まれた「CITIZEN」の文字。
日本だけでなく、世界中で知られている時計ブランドです。
その本社がどこにあるのか、考えたことはあるでしょうか。
東京の丸の内? 銀座? それとも海外?
実は、東京都西東京市の田無町。
西武新宿線の田無駅から徒歩約10分の場所に、世界的な時計メーカー「シチズン時計株式会社」の本社があります。[1][3]
ちょっと意外ではありませんか。
しかも、たまたま本社を移転してきた企業というわけではありません。田無とシチズンの関係は、1936年までさかのぼります。
2026年は、それからちょうど90年。
ただ、調べ始めると、最初の予想とは少し違う歴史が見えてきました。
シチズンは田無で創業した会社ではありません。1918年に東京・高田馬場で始まり、1936年に田無へ工場を建設。長年にわたって時計づくりの重要拠点となった後、2001年に、その工場跡地へ本社を移転しました。[2][3]
つまり、田無は単なる本社所在地ではなく、会社の成長を長く支えてきた土地だったのです。
それでは、なぜ最初に田無が選ばれたのでしょう。
なぜ世界的な時計メーカーは、田無を選んだのか?

1930年代の田無を、現在の駅前の姿で想像すると少し間違えてしまいます。
当時は、今ほど住宅や商業施設が密集していない時代。シチズンが工場建設を計画した場所にも、畑が広がっていました。
その田無に、1936年5月、新しい工場が設けられます。[2]

東京には、もっと都心に近い土地もあったはずです。
では、なぜ田無だったのでしょうか。
決め手は、土地の広さと交通の便
西東京市の地域メディア「ひばりタイムス」が2023年に行った取材では、シチズンミュージアムの関係者が、田無を選んだ理由として次の条件を挙げています。
青梅街道があること。鉄道が通っていること。そして、広い土地を確保できたこと。[3]
なるほど。時計工場を建設するうえで、必要な条件がそろっていたのです。
ここで大切なのは、当時の工場が単に時計を組み立てる場所ではなかったことです。
材料や部品を運び込み、精密な部品を加工し、完成した製品を出荷する。
そんな生産活動を行うには、建物を建てるだけでなく、人と物が移動できる環境が欠かせません。
今ならオンライン会議や宅配便で何でも済みそうに思えますが、1930年代の話です。
当時の道路と鉄道は、工場を動かすための重要な基盤でした。
当時の敷地面積は約2万坪。平方メートルに直すと約6万6,000平方メートルにもなります。[3]
かなりの広さです。
工場の境界を示すために植えられたという桜の木の一部は、2023年の取材時点でも敷地内に残っていました。
世界的な時計メーカーと田無を結びつけた最初の理由は、実に現実的な土地と交通の条件だったのです。
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
そもそもシチズンは、どうしてそんなに大きな工場を必要としていたのでしょうか。
そもそも「シチズン」は、田無生まれではなかった

話を少しだけ巻き戻しましょう。
時計の針を1918年に戻します。
シチズンの前身は、東京・高田馬場で設立された「尚工舎時計研究所」です。
創業者は山崎亀吉。目指していたのは、国産時計の製造でした。[2][3]
当時、精度の高い時計をつくることは簡単ではありませんでした。
時計は、小さな歯車や軸、ばねなど、数多くの部品が正確に動くことで時間を刻みます。
ほんのわずかな加工の違いが、時計の動きに影響します。
そのため、シチズンの前身では時計そのものだけでなく、技術者の育成や部品を製造する技術の蓄積も進めていました。
1921年には時計技術者を育てる「尚工舎時計学校」を設立しています。[2]
最初は、会社名ではなく時計の名前だった
1924年、ついに最初の懐中時計が完成します。
この時計に付けられた名前が「CITIZEN」。
実は、シチズンという名前は、最初から会社名だったわけではありません。
当時の東京市長だった後藤新平が命名に関わったと伝えられています。
込められたのは、広く市民に親しまれる時計になってほしいという願いでした。[3]
高級品として限られた人だけが持つ時計ではなく、もっと多くの人が使える時計へ。
この名前が、1930年に設立された会社の名称にもなりました。
「CITIZEN」は英語で「市民」を意味します。
時計のブランド名としては、少し珍しい言葉かもしれません。でも、誰もが時間を身近に使えるようにするという考えで見ると、納得できる名前です。
1931年には、シチズン初の腕時計「CITIZEN F型」が完成します。
腕時計の生産を広げていくなかで、部品を製造するための設備も必要になっていきました。
そして1936年、田無工場が誕生します。
つまり、田無が時計づくりの拠点になった背景には、国産時計を大量に、そして精密につくるための生産体制の拡大があったのです。[3]
ここまでは、腕時計メーカーとして理解できる話です。
ところが、1936年の沿革には、もう一つ重要な記録があります。
「工作機械の生産開始」。
時計をつくる会社が、機械そのものをつくり始めたのです。
時計メーカーなのに、時計をつくる「機械」まで開発していた?
シチズンの歴史で、見逃せないポイントがあります。
それは、時計をつくる技術と、時計の部品をつくるための機械を開発する技術が、深く結びついていたことです。
たとえば、非常に小さな歯車を大量に製造するとしましょう。
一つひとつの部品を正確につくるには、加工する機械にも高い精度が求められます。
時計を高性能にしたければ、部品の精度を上げる必要がある。
部品の精度を上げたければ、それをつくる機械も進化させなければならない。
時計づくりと機械づくりが、互いを高め合う関係になっていたのです。
シチズンの公式沿革では、1936年に工作機械の生産を始めたこと、時計用精密機械「AL-1」を内製化したことが記録されています。[2]
そして1961年には、工作機械の外部販売も始まりました。
ここが面白いところです。
時計をつくるために磨いた技術が、今度は時計以外のものづくりを支える技術になっていった。
現在、シチズングループの工作機械は、自動車や医療、IT関連などの分野でも活用されています。[1]
腕時計メーカーの技術が、自動車や医療機器の部品づくりにもつながっている。
時計の文字盤から始まった話が、ずいぶん広い世界に出てきました。
ただし、現在のシチズンのすべての技術や製品が田無で生まれたという意味ではありません。研究開発や製造は、国内外のさまざまな拠点で行われています。
田無の重要性は、初期から長く続いた大規模な生産拠点としての役割にあります。
田無駅から工場まで、人の列が続いた時代があった

時計づくりの拠点として発展した田無工場。
その規模を最も分かりやすく伝えてくれる数字があります。
4,772人。
1968年、田無工場の従業員数がピークに達したときの人数です。[3]
現在の感覚でも、一つの工場で数千人が働いているというのは相当な規模です。
当時は、田無駅から工場へ向かう従業員の列が続いていたと伝えられています。
駅から工場まで徒歩約10分。
今では街の中にある本社ですが、かつては多くの働く人が毎日行き来する巨大な製造拠点でした。
工場の中に、生活の場もあった
当時の敷地には、工場の建物だけが並んでいたわけではありません。
社員寮や社宅、グラウンド、生協なども設けられていました。
生協には地域の人たちも買い物に訪れ、周辺の飲食店も工場で働く人たちによってにぎわっていたといいます。[3]
ここまで来ると、単なる工場というより、一つの小さな街のようです。
工場で働き、近くで暮らし、買い物をし、食事をする。
田無の街とシチズンは、仕事だけでなく、日々の生活を通してつながっていました。
1935年の建設予定地には畑が広がり、1960年代には数千人が働く工場へ。
同じ場所が、わずか数十年で大きく姿を変えていったことが分かります。
しかし、時計の歴史はそこで止まりません。
時計はその後、より正確に、より便利に、そして電池交換の手間を減らす方向へ進化していきます。
ここからは、シチズンという企業全体の技術革新を見てみましょう。
世界へ広がったシチズンの技術。時計はどう進化した?
私たちが当たり前のように使っている腕時計。
しかし、現在の腕時計に備わる機能の多くは、長年の技術開発によって実現したものです。
シチズンも、その進化に重要な役割を果たしてきました。
国産初のカレンダー付き腕時計を発売。時間だけでなく日付も確認できる便利さを広げました。
国産初の耐震装置付き腕時計を発売。衝撃から時計の内部機構を守る技術を進化させました。
国産初の完全防水腕時計として発売。当時の防水技術を象徴する製品です。
世界初の多局受信型電波時計を発売。標準電波を利用して時刻を合わせる技術を発展させました。
光発電「エコ・ドライブ」を搭載した腕時計を発売。光を電気エネルギーに変えて時計を動かす技術が広がります。
世界初となるアンテナ内蔵型フルメタルケースの電波時計を発売。受信性能とデザインを両立する技術が進みました。
これらはシチズンの公式技術史で確認できる代表的な出来事です。[2]
光で動く時計が変えたもの
特に身近なのが「エコ・ドライブ」です。
光を受けて発電し、そのエネルギーを蓄えることで時計を動かします。
定期的な電池交換の手間を減らせるのが大きな特徴です。
1996年には、エコ・ドライブ搭載の腕時計が腕時計として初めてエコマークを取得しました。[2]
時間を正しく示すことだけでなく、日常の使いやすさや環境への配慮も、時計に求められるようになっていったのです。
ただし、ここで一つ注意があります。
これらの製品がすべて田無工場だけで開発・製造されたと確認できるわけではありません。
シチズンは国内外に研究・開発・製造拠点を持つ企業です。
田無工場が果たした役割と、シチズングループ全体が実現した技術革新は、分けて理解する必要があります。
では、そんな巨大な工場があった場所は、なぜ現在の本社になったのでしょうか。
2001年、工場の跡地に「本社」がやってきた
これが、最初の疑問を解く最後の手掛かりです。
シチズンの本社は、最初から田無にあったわけではありません。
1970年代には、新宿の高層ビルに本社が置かれていました。
一方、田無には大規模な製造拠点があり、開発部門や販売部門などは別の場所にも分かれていました。
当時を知る関係者への取材では、プロジェクトの打ち合わせのため、さまざまな部門の担当者が田無へ集まっていたことが紹介されています。[3]
本社は新宿、ものづくりの重要拠点は田無。
そんな時代が続いていたのです。
その後、工場の生産設備は徐々にグループ会社へ移されていきます。
そして2001年3月、シチズン時計は西東京市田無町へ本社を移転しました。[1][3]
移転先は、長年にわたって時計をつくってきた田無工場の跡地です。
つまり、外から見れば「世界企業が田無に本社を移した」という出来事ですが、会社の歴史から見れば少し違います。
長年のものづくりの拠点に、後から本社がやってきた。
こう考えると、急に自然な話に見えてきませんか。
なお、本社移転の経営上の理由を一つに断定することはできません。ただ、製造拠点としての長い歴史と、工場跡地への移転という経緯は、資料から確認できます。
時計工場の歴史は、今も田無に残っている?

現在のシチズン時計本社は、東京都西東京市田無町6丁目にあります。
同社の事業は腕時計だけでなく、工作機械やデバイスなどの分野にも広がっています。時計事業は世界約140の国と地域で展開されています。[1]
現在も、田無の本社所在地はグループの重要な拠点です。
本社内には「シチズンミュージアム」も
2016年には、本社敷地内にシチズンミュージアムが開設されました。
創業以来の時計や技術の歴史を保存し、伝える施設です。
ただし、一般向けの常設公開施設ではありません。
2022年の多摩六都科学館の資料や2023年の取材では、通常は一般非公開で、関係者の見学や学校の社会科見学などに活用されていると説明されています。[4][3]
そのため、普通の博物館のように自由に入館できると考えないようにしましょう。
見学企画や公開イベントが実施される場合は、主催者の最新案内を確認する必要があります。
時計だけではない、田無とのつながり
シチズンと地域の交流は、工場や時計に限りません。
シチズンの卓球部も、西東京市と関わりを持ってきました。
地域の中学校の卓球部との交流などが行われ、2019年には西東京市の親善大使にもなっています。[3]
世界的な時計ブランドの会社が、地元の中学生のスポーツ活動ともつながっている。
これもまた、田無に長く拠点を置いてきた企業ならではの一面です。
シチズン時計 本社・基本情報
- 会社名
- シチズン時計株式会社
- 所在地
- 東京都西東京市田無町6-1-12
- 最寄り駅
- 西武新宿線「田無駅」
- アクセス
- 田無駅から徒歩約10分(目安)
- 田無工場の開設
- 1936年5月
- 現在地への本社移転
- 2001年3月
- 施設見学
- 本社は一般観光施設ではありません。シチズンミュージアムも通常は一般非公開です。
- 公式情報
- シチズン時計株式会社|会社概要
※2026年10月22日確認。アクセス時間は目安です。敷地内への無断立ち入りはできません。
1936年から2026年へ。90年間の出来事を並べてみる
最後に、シチズンと田無の関係を時間順に整理してみましょう。
東京・高田馬場で尚工舎時計研究所が創業。
最初の懐中時計が完成。「シチズン」の名前が生まれる。
シチズン時計株式会社が設立される。
田無工場を開設。時計製造の重要な拠点となる。
腕時計の輸出を開始。海外市場への展開が進む。
田無工場の従業員数が4,772人となり、ピークを迎える。
田無製造所が全国優秀先端事業所賞を受賞。
工場跡地に本社を移転。田無は企業経営の中心地となる。
本社内にシチズンミュージアムが開設される。
田無工場の開設から90周年。世界的な時計メーカーと田無の関係が続いている。
こうして並べると、1936年の工場建設が会社にとって、そして田無の街にとって大きな出来事だったことが見えてきます。[2][3]
まとめ|田無に本社があるのは、偶然ではなかった
最初は少し不思議に思えた、世界的な時計ブランドと田無の組み合わせ。
けれど、1936年までさかのぼると、その理由が少しずつ分かってきます。
青梅街道と鉄道、そして広大な土地。
時計の大量生産を支えるため、田無に工場が造られました。
そこで働く人は増え、最盛期には4,700人を超える大きな製造拠点になりました。
時計づくりの技術が進化し、製造体制が変わっていくなかで、2001年には工場跡地へ本社が移転します。
その結果、現在の田無に世界的な時計メーカーの本社があるのです。
普段、何気なく通り過ぎている田無町の一角。
そこには、かつて畑が広がり、やがて数千人が働く時計工場が生まれ、世界へ時計を送り出す企業の歴史が積み重なってきました。
腕時計に刻まれた小さな「CITIZEN」の文字。
その文字を見るとき、東京・田無という街の名前も、少しだけ思い浮かべたくなります。
90年前に始まった田無と時計の物語は、今も続いています。
参考資料・出典
-
シチズン時計株式会社|会社概要・事業領域
発行:シチズン時計株式会社 https://www.citizen.co.jp/company/outline.html 確認日:2026年10月22日 -
シチズン時計株式会社|沿革・サステナブルヒストリー
発行:シチズン時計株式会社 https://www.citizen.co.jp/company/enkaku.html https://www.citizen.co.jp/sustainability/history/ 確認日:2026年10月22日 -
老舗物語 第3回 シチズン時計創業105年「市民に愛され市民に貢献する」
発行:ひばりタイムス/2023年4月21日
シチズンミュージアム関係者への取材に基づく工場用地の選定理由、工場規模、従業員数、田無との関係など。 https://www.skylarktimes.com/archives/41552 確認日:2026年10月22日 -
シチズンミュージアムに関する報道資料
発行:多摩六都科学館/2022年5月10日
ミュージアムの役割と一般非公開についての案内。 多摩六都科学館の資料を確認する 確認日:2026年10月22日
※本記事は公開資料・企業公式沿革・地域メディアの取材記録をもとに編集しています。過去の工場の姿と現在の本社の姿、田無の事業所の歴史と企業全体の技術開発史を区別して記述しています。