
田無には、シチズン時計の本社がある。
でも、この街に集まった大企業は、時計メーカーだけではありませんでした。
住友重機械工業。かつての中島飛行機。さらには製薬会社や重工業関連の企業まで。
西東京市の歴史を調べると、1930年代の田無には、いくつもの大きな工場や企業の社宅が建てられていたことが分かります。[1]
でも、ここで一つ疑問が浮かびます。
なぜ、当時の東京の郊外に、これほどの企業が集まったのでしょうか。
その答えを探していくと、田無が単に便利な住宅街ではなかったことが見えてきます。
田無の工業化には、東京近郊の交通網、工場に使える土地、そして戦前から戦中にかけて拡大した航空機産業が大きく関係していました。
特に中島飛行機は1928年から田無に施設を設け、後に航空機部品を製造する大工場へと発展しました。そこから社宅や労働者の増加、物流用の専用線へと話が広がっていきます。[2]
時計の街だと思っていたら、どうやら航空機の歴史まで出てきました。
まずは、工場が集まり始める少し前の田無に戻ってみましょう。
そもそも田無は、工場の街ではなかった

現在の田無駅周辺には、商業施設や飲食店、住宅地が広がっています。
しかし、もともとの田無は、青梅街道沿いの宿場町として発展してきた場所でした。
江戸時代、青梅街道は物資を運ぶ重要な道でした。田無には宿屋や商店が並び、周辺地域の人々が行き交う商業の拠点になっていきます。[3]
つまり、田無は初めから工業都市だったわけではありません。
転機の一つとなったのが、1927年です。
それまでも田無には青梅街道があり、武蔵境方面との行き来もありました。
そこへ鉄道が加わったことで、高田馬場方面への移動が便利になり、駅へ向かう道路沿いには商店や住宅が増えていきます。[3]
東京の中心部から極端に遠いわけではない。一方で、当時は現在ほど住宅が密集していない。
そんな土地が、大規模な施設の進出先として注目される条件を備えていたと考えられます。
ただし、個々の企業が田無を選んだ理由は同じではありません。鉄道開通だけですべてを説明することもできません。
そこで次の手掛かりとなるのが、ある航空機メーカーです。
工業化の始まりは1930年代ではなく、1928年だった

中島飛行機。
戦前の日本で航空機やエンジンを製造していた大手メーカーです。
西東京市の文化財資料には、1928年に田無町北部へ、中島飛行機の発動機試運転工場が建設されたと記されています。[2]
発動機とは、現在でいうエンジンのこと。
当時の中島飛行機は、現在の杉並区にあたる荻窪方面にもエンジン工場を持っていました。田無の施設では、そこで組み立てたエンジンの試運転が行われていたと研究資料に記録されています。[4]
ここで、田無に工場が設けられた理由が少し具体的になります。
エンジンを製造するだけなら工場の建物が必要です。しかし、実際に動かして性能を確かめるには、試運転のための設備や場所も必要になります。
当時の田無北部には、そうした施設が置かれたのです。
ただし、エンジンの試運転は静かな仕事ではありません。
研究資料では、谷戸地区でエンジンの試運転音が問題となり、住民による反対運動も起きたとされています。[4]
工場ができたことで仕事や人の流れが生まれる一方、地域の暮らしとの摩擦も生まれていました。
そして1938年、この試運転施設の近くに、さらに大きな工場が建てられます。
現在の住友重機械の場所で、何を造っていた?

1938年、田無には中島飛行機の田無鋳鍛工場が設けられました。
「鋳鍛」は少し難しい言葉ですが、金属を溶かして型に流し込む「鋳造」と、金属に力を加えて形を整える「鍛造」を指します。
航空機のエンジンには、高い精度や強度が求められる金属部品が使われます。
田無の工場は、そうした部品を製造する重要な施設になりました。
住重フォージングの公式沿革によると、工場は1938年に発足し、戦時中には零式戦闘機などに使われる航空機部品の鋳造・鍛造を行っていました。[5]
時計の次は、まさかの航空機エンジン。
田無の工業史は、想像していた以上に幅が広いようです。
中島飛行機から、現在の住友重機械へ
田無鋳鍛工場は、翌1939年に中島航空金属へとつながり、戦後は日特金属工業などを経て、1982年に住友重機械工業へ吸収合併されました。[5]
ここで大切なのは、昔の工場が会社名だけ変えて、そのまま同じ製品を造り続けているわけではないということです。
航空機用の精密鍛造品を扱う事業は2003年に田無から横須賀へ移りました。[6]
一方、2026年時点でも住友重機械工業の田無製造所は西東京市谷戸町にあり、公式拠点案内には極低温・真空関連の事業拠点として掲載されています。[7]
航空機エンジンの金属部品から、極めて低い温度や真空を扱う先端技術へ。
同じ田無の工場の歴史を追っているのに、途中で技術の世界が大きく変わっているのです。
でも、工場の材料はどう運んでいた?

ここまで分かると、別の疑問が浮かびます。
航空機のエンジンに使う金属部品を大量に製造するなら、原料や製品はどうやって運んでいたのでしょうか。
その答えは、鉄道です。
しかも、現在の田無駅に関係する西武新宿線だけではありません。
当時の中島航空金属田無製造所には、西武池袋線の東久留米駅方面から工場へつながる専用の貨物線が存在しました。
東久留米市の郷土資料では、この専用線の構造や、工場との関係が紹介されています。[8]
一般の人が乗る電車ではなく、工場のための鉄道。
普段利用している西武線にも、そんな時代があったのです。
さらに、研究資料によれば、中島飛行機の武蔵野方面の工場と田無方面を結ぶ軽便鉄道も戦時中に敷設されました。こちらは戦後まもなく撤去され、現在の西武線の線路とは別のものです。[4]
なぜ専用鉄道が必要だったのか。
大量の原料や製品を運ぶ工場にとって、輸送手段の確保は欠かせません。工場と駅を直接結ぶ線路があれば、貨車による資材の搬入や製品の輸送を行いやすくなります。
田無の工業化を理解するには、工場の敷地だけでなく、その外側につながる物流網を見る必要があるのです。
ここで最初の問いにも、一つ答えが見えてきます。
田無に工場が集まった背景には、単に広い土地があったことだけでなく、周辺の交通網や既存工場とのつながりがありました。
そして工場が大きくなると、変わるのは鉄道だけではありません。
街そのものが変わっていきます。
時計、飛行機、製薬会社。なぜ街の人口まで増えた?
中島飛行機だけが、田無の産業を支えていたわけではありません。
1930年代には大日本時計、現在のシチズン時計の工場も田無に立地しました。
西東京市の産業調査資料では、シチズン時計の東京事業所を1936年設立として掲載しています。[9]
さらに西東京市の歴史年表には、大日本時計、中島航空金属、三共、豊和重工といった名前が登場します。
これらの企業に関係する社宅の建設などによって、昭和10年代から田無の人口増加が始まったと説明されています。[1]
ここは重要なポイントです。
工場ができると、働く人が必要になります。
働く人が増えれば、住む場所が必要になります。住宅や寮が建ち、生活に必要な店や施設も求められるようになります。
大企業の進出は、工場の門の内側だけで終わらなかったのです。
| 企業・工場 | 田無との関係 |
|---|---|
| 大日本時計 現在のシチズン時計 |
1930年代に田無へ進出。現在も本社・東京事業所が立地。 |
| 中島飛行機・中島航空金属 | 1928年に試運転施設、1938年に鋳鍛工場。現在の住友重機械田無製造所につながる歴史を持つ。 |
| 三共 | 市の歴史年表に、昭和10年代の社宅建設に関係する企業として登場。 |
| 豊和重工 | 市の歴史年表に、同時期の社宅建設に関係する企業として登場。 |
出典:西東京市「年表(田無版)」、市産業調査資料、住重フォージング公式沿革。企業によって確認できる立地の形態や時期は異なります。三共・豊和重工については、この表をもって現在の田無に同名工場が存在すると示すものではありません。
時計、航空機、製薬関連企業、重工業。
扱う製品がまったく違う企業の名前が、同じ街の年表に並んでいます。
ただし、すべての企業が同じ理由で田無を選び、互いに誘致し合ったとまでは確認できません。
分かっているのは、交通網の整備と工場進出が重なり、社宅や住宅の建設を通じて街の人口構造が変わったということです。
田無は工場を持つ街であると同時に、そこで働く人々が暮らす街にもなっていきました。
工場が集まった街は、戦争で何を失ったのか
ここまでの話には、避けて通れないもう一つの側面があります。
航空機産業の発展は、戦時中の軍需生産と深く結びついていました。
田無に隣接する武蔵野市には、中島飛行機の大規模な武蔵製作所がありました。
そして戦争末期、こうした軍需関連施設は空襲の標的となります。
西東京市の文化財資料にも、田無や保谷が空襲によって大きな人的被害を受けたことが記録されています。[2]
工場で働く人が増え、街が発展する一方で、その工場が軍需生産に関わることで、地域の住民も戦争の危険にさらされることになりました。
田無駅周辺も例外ではありません。
田無アスタの30周年記念歴史資料には、1945年4月12日の空襲や、駅周辺で犠牲になった人々についての記録が残されています。[3]
そして戦後、田無はもう一度、大きく姿を変えていきます。
工場の街は、いつ住宅都市に変わった?

戦後の田無では、大規模な住宅開発が進みます。
西東京市の年表によると、昭和30年代の高度経済成長期には東京近郊への人口集中が加速。田無町では都営住宅などの整備が進み、住宅都市としての性格が強くなっていきました。[1]
1967年には田無市が誕生。そして2001年には保谷市と合併し、現在の西東京市になりました。
田無駅の北口でも再開発が進み、1995年には商業施設「アスタ」が開業しています。[3]
現在の街並みを形づくる商業施設や住宅地は、こうした戦後の変化の中で発展してきました。
一方、すべての工場が消えたわけではありません。
シチズン時計は田無に本社・事業所を置き、住友重機械工業も谷戸町に製造所を持っています。
その姿は、昔の工業都市がそのまま残っているというより、街が住宅都市へ変化する中で、企業も事業内容や役割を変えながら歴史をつないできたと捉えるほうが近そうです。
時系列で見ると、田無の変化はもっと分かる
青梅街道の宿場町・商業拠点として発展。
鉄道が開通し、田無駅が誕生。駅周辺の開発が進み始める。
中島飛行機の発動機試運転工場が田無北部に設けられる。
大日本時計などが田無に進出。1938年には中島飛行機田無鋳鍛工場が発足。
田無鋳鍛工場が中島航空金属へとつながる。
軍需生産が拡大。工場専用鉄道や社宅などの整備も進む。
空襲と終戦。地域の産業と暮らしが大きな転換期を迎える。
住宅開発が加速。1967年に田無市が誕生。
田無アスタが開業。駅前の商業拠点として新しい姿を見せる。
保谷市との合併で西東京市に。住宅都市として発展する一方、歴史ある企業拠点も残る。
1928年の試運転工場、1938年の鋳鍛工場、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所は、関連していますが同じ施設ではありません。また、かつての工場専用線は現在の旅客鉄道とは異なり、現存する鉄道路線として利用することはできません。
時計の街だと思っていた田無。その見え方が変わる
最初の疑問に戻りましょう。
なぜ田無には、時計だけでなく、いくつもの大きな企業が集まったのでしょうか。
調べてみると、田無には青梅街道という古くからの交通の軸があり、1927年には鉄道が開通しました。
そして1928年には、中島飛行機がエンジンの試運転施設を設置。1930年代には時計工場や航空機部品工場が進出し、工場を支える物流網や社宅も整えられていきました。
ただ、企業の進出は街に仕事や活気をもたらしただけではありません。騒音問題を生み、戦争末期には深刻な空襲被害とも結びつきました。
その歴史を経て、田無は現在の住宅都市へと姿を変えてきたのです。
今、田無の街で「シチズン」の名前を見かけたとき。
以前なら、世界に知られる時計メーカーの本社がある街、という印象だったかもしれません。
けれど、その周辺には航空機エンジンを造った時代があり、工場へ続く貨物線があり、働く人のための住宅が増えていった時代もありました。
田無は、時計メーカーだけが偶然やって来た街ではなかった。
普段歩いている住宅街や商業施設の背景にも、かつての工場と、そこで働いた人々の歴史が重なっています。
時計の針を少し戻してみると、いつもの田無が、少し違う街に見えてきます。
参考資料・出典
本記事は自治体の歴史資料、企業の公式沿革、地域の研究資料をもとに構成しています。企業の事業内容や所在地は時代によって変わるため、歴史上の施設と現在の施設を区別しています。
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西東京市「年表(田無版)」
発行:西東京市
鉄道開通、大日本時計・中島航空金属・三共・豊和重工、社宅建設、人口増加、市制施行の記録。
西東京市公式ページ -
西東京市文化財保存・活用計画
発行:西東京市教育委員会
1928年の中島飛行機試運転工場、1938年の田無鋳鍛工場、空襲、戦後の住宅都市化に関する記録。
公式PDF -
田無アスタ「30周年記念・田無北口再開発の歴史展」
発行:田無アスタ専門店街
青梅街道、駅開業、工場関連施設、戦災、戦後の街の変化と再開発について。
公式記念ページ -
「昭和初期における多摩地域の工業化」
明治大学学術成果リポジトリ収録資料
中島飛行機の田無進出、谷戸の試運転施設、交通・物流、周辺地域の工業化に関する研究。
研究資料PDF -
住重フォージング株式会社「企業情報・沿革」
1938年の田無鋳鍛工場発足、航空機部品製造、戦後の変遷、1982年の吸収合併、2003年の移転。
公式沿革 -
住友重機械工業「横須賀製造所内に精密鍛造品の新工場を完成」
発表:2003年10月29日
田無から横須賀への航空機用精密鍛造事業移管を説明した公式発表。
公式ニュースリリース -
住友重機械工業「国内拠点一覧」
田無製造所の所在地と現在の事業部門に関する公式情報。
公式拠点案内 -
東久留米市 郷土資料「中島航空金属田無製造所と専用側線」関連資料
発行:東久留米市
工場へつながる鉄道専用線と周辺の歴史を解説した資料。
自治体公開PDF -
西東京市「ソフトなものづくり産業に関する調査資料」
発行:西東京市
市内主要工場一覧に、シチズン時計東京事業所の設立年などを掲載。
公式調査資料PDF
情報確認日:2026年10月23日。出典のうち一部のPDFは本文検索で確認できた範囲を使用しています。工場・企業の歴史に関する説明は、確認できた資料の記載と編集部による読み解きを区別して構成しました。