
天皇陛下も皇太子時代に訪れた昭和の巨大団地。なぜ今、古い118号棟が街づくりの中心になっているのか?
「ひばりテラス118」。
なんだか新しいマンションの名前のようですが、実はこの「118」、昭和の団地に付けられた建物番号です。
1959年に入居が始まった「ひばりが丘団地」。かつて2,714戸を擁し、当時の皇太子ご夫妻も視察に訪れた、戦後日本を代表する大規模住宅地の一つでした。
ところが、団地は時代とともに老朽化。1999年から大規模な建て替えが始まります。
ここで、ちょっと不思議なことが起きます。
古い建物を新しくするはずなのに、なぜか古い118号棟を残したのです。
しかも、ただの記念保存ではありません。カフェや交流スペースを備えた、現役の地域拠点として生まれ変わりました。
新しい街をつくるために、あえて古い家を残す。
どうやらこの選択には、「団地」という住まいが抱えてきた問題と、その先の答えが隠れていそうです。
最初に答えを少しだけ
118号棟が残されたのは、古い建物を展示するためだけではありません。
建物の建て替えだけでなく、そこに暮らす人たちのつながりも未来へ引き継ぐため。
なぜ、昭和の人々は団地に憧れたのか?

まず時計を、1959年に戻してみましょう。
この年、日本住宅公団が整備した「ひばりが丘団地」で入居が始まりました。
場所は現在の東京都西東京市と東久留米市にまたがる地域。住宅戸数は2,714戸という大規模なものでした。[1]
今なら大型マンションや住宅団地は珍しくありません。
けれども当時は、戦後の住宅不足を解消するため、都市の周辺に新しい住まいが次々と整備されていた時代です。
団地には、それまでの住まいとは異なる生活の形がありました。
「食べる場所」が変わったことも革命だった
昭和の団地生活を象徴する設備の一つが「ダイニングキッチン」です。
台所と食事の空間を結び、テーブルと椅子を使って家族が食事をする。
今では当たり前に見えるこの生活様式も、畳の部屋でちゃぶ台を囲む暮らしが広く残っていた時代には、新しい住宅文化の象徴でした。
UR都市機構が紹介する江戸東京博物館の展示には、ひばりが丘団地の住戸を再現した空間があり、当時の電化製品や家具、台所の様子などから、その暮らしを知ることができます。[3]
つまり団地は、単なる集合住宅ではなかったのです。
新しい家に引っ越すことが、新しい生活そのものを始めることだった。
住宅の間取りにまで、時代の変化が表れていました。
いまの感覚で言えば、最新設備の整った住まいと新しいライフスタイルが、まるごと街になって誕生したようなものです。
では、そんな新しい生活を象徴する団地は、いったいどれほど注目されていたのでしょうか。
皇太子ご夫妻まで視察に来たのはなぜ?

ひばりが丘団地の歴史を調べると、思いがけない人物が登場します。
1960年9月、当時の皇太子・明仁親王と美智子妃が、完成間もないひばりが丘団地を訪れました。
のちの上皇・上皇后両陛下です。
団地に皇太子ご夫妻。
現在の感覚では、なかなか想像しにくい組み合わせかもしれません。
UR都市機構が紹介する当時の写真資料によると、視察は訪米前に日本国内の事情を見て回る目的で行われ、団地の室内も見学されました。[4]
ここが大切なポイントです。
ひばりが丘団地は、単に多くの人が暮らす住宅地としてではなく、戦後の日本で人々の生活がどう変わろうとしているのかを知ることのできる場所でもあったのです。
そして、ひばりが丘団地が街に与えた影響は、住宅の中だけにとどまりませんでした。
実は、駅の名前まで変えていた
西武池袋線の「ひばりヶ丘駅」。
この駅は開業当初から「ひばりヶ丘」と呼ばれていたわけではありません。
1924年の開業時の名前は、なんと「田無町駅」。
1959年5月1日、ひばりが丘団地が誕生した時代に合わせて「ひばりヶ丘駅」へ改称されました。[5]
団地ができたから、駅の名前も変わる。
普通は駅を中心に街が広がるイメージですが、ここでは巨大な住宅地の誕生が、鉄道の駅名にも影響していたのです。
ただ、どれほど新しい住宅も、何十年も経てば古くなります。
そして、住宅が古くなることと、街が古くなることは、どうやら同じではないようです。
憧れの団地は、なぜ建て替えられたのか?

1959年から40年以上。
かつて最新だった住宅も、設備や間取りが時代の暮らしに合わなくなっていきました。
そこでUR都市機構は、1999年3月から団地の建て替えに着手します。
住民や自治体との協議を重ね、住宅を順次建て替える大規模な再生事業が進められました。UR賃貸住宅の建て替えは2012年に完了しています。[1][6]
しかし、ここで一つ問題があります。
住宅を新しくするだけで、街も新しくなるのでしょうか。
建物はきれいになっても、住民同士の関係が自然に生まれるとは限りません。
長く住んできた人もいれば、建て替え後に初めて引っ越してくる人もいます。
賃貸住宅に暮らす人も、分譲マンションを購入した人もいます。
それぞれ違う背景を持つ人々が、同じ地域で暮らしていく。
必要なのは新しい住戸だけではなく、新しい住民と昔からの住民が、自然につながるきっかけでした。
建物を替えても、消したくなかったもの
団地の再生では、建物の更新だけでなく、長年育ってきた緑や地域のコミュニティを引き継ぐ方針が掲げられました。
UR都市機構が示した街づくりのコンセプトは「緑と暮らすつながりのまち」。
ここでいう「つながり」には、豊かな緑で地域を結ぶことと、人と人との関係を育てること、二つの意味が込められています。[1]
道路や住宅を整備するだけでは、後者は生まれません。
そこで登場するのが、あの古い118号棟です。
なぜ「118号棟」だけを残したのか?

建て替えが進む街の中で、旧団地のテラスハウス118号棟が残されました。
テラスハウスとは、複数の住戸が横につながる長屋形式の住宅のこと。
118号棟は、かつてのひばりが丘団地で実際に住宅として使われていた建物です。
UR都市機構の資料によれば、この建物を改修し、2015年11月14日に地域の交流拠点「ひばりテラス118」がオープンしました。
「118」という名前の由来は、とてもシンプル。
元の建物が118号棟だったから。[2]
新しい施設名なのに、昔の番号をそのまま引き継いだのです。
ここには、古い建物を再利用するだけでは終わらない意味があります。
住むための家が、集まるための家になった
旧118号棟は、改修によってコミュニティ施設へと用途を変えました。
URが開設当時に紹介した施設には、大小6つのコミュニティスペース、個人で仕事や趣味に使う空間、カフェ、共同菜園、芝生広場などが備えられていました。[1]
かつては家族ごとの暮らしを支えていた建物が、今度は地域のさまざまな人が関わるための場所になったのです。
住宅から、街の交流拠点へ。
使い方は大きく変わっても、「暮らしを支える建物」という役割は続いています。
ここが面白い
118号棟は、古い団地をただ眺めるための施設ではありません。
昭和の住まいを、平成以降の地域コミュニティに使い直す。いわば建築の再利用と、人のつながりの再生を一緒に進めた場所なのです。
では、建物を一つ残しただけで、どうして街づくりにつながるのでしょうか。
その答えは、118号棟そのものよりも、そこを動かす仕組みにありました。
「エリアマネジメント」って、結局何をするの?
ひばりテラス118を語るときに欠かせない言葉が「エリアマネジメント」です。
少し難しい名前ですが、意味は意外と身近です。
街を一度つくって終わりにするのではなく、住民や事業者が協力して、街の環境や暮らしやすさを育て続けること。
公園や交流施設を活用し、地域のイベントを企画し、住民同士が交流する仕組みを整える。
行政や開発事業者だけに街の未来を任せず、そこで暮らす人々も一緒に関わっていきます。[1]
カフェやマルシェにも役割がある
ひばりテラス118では、カフェや交流スペースを拠点とした活動が展開されてきました。
地域イベントの「にわマルシェ」や「にわジャム」、住民が講座や企画に参加する活動なども、その一例です。
2020年の関係事業者の発表では、2019年の1年間に各種イベントへ延べ約3,500人の地域住民が参加したと紹介されています。[6]
3,500人。なかなかの人数です。
もちろん、これは延べ人数であり、3,500人の別々の住民が参加したという意味ではありません。
それでも、施設が地域の交流に使われてきたことを示す数字です。
イベントやカフェを通して、これまで接点のなかった人が顔を合わせる。
一緒に作業をしたり、地域の出来事を知ったりする。
小さな交流が積み重なることが、街のつながりを育てる仕組みになっています。
実は、運営するお金の仕組みも考えられていた
さらに注目したいのが、活動を続けるための費用です。
UR都市機構が公表した当初の仕組みでは、開発事業者が負担金を拠出し、対象となる住宅街区の住民は月額300円のエリアマネジメント会費を負担する枠組みが設けられました。
それに加え、カフェなどの事業収入も活動資金に活用する仕組みです。[1]
これは、単発のイベントを開催するだけの考え方ではありません。
街を育てる取り組みを、日常的に続けるための設計です。
なお、月額300円は当初の対象街区における制度上の金額で、施設への一般来訪者が支払う入場料ではありません。現在の各種会費や利用料金は別途確認が必要です。
そして、この仕組みにはもう一段階、重要な変化が待っていました。
2020年、街づくりの主役が変わった

ひばりテラス118がオープンした2015年。
この段階では、UR都市機構と民間の開発事業者が連携し、地域運営の土台を整えていました。
しかし、開発事業者がずっと主役であり続けることが最終目標ではありません。
2020年6月28日、運営組織「一般社団法人まちにわ ひばりが丘」は、大きな転換点を迎えます。
活動主体が開発事業者から地域住民へ移行したのです。[6]
最初は企業やURが街づくりの仕組みを整え、やがて住民が自分たちの街を主体的に運営する。
ここに、ひばりが丘団地の再生の特徴があります。
マンションを完成させることがゴールではありません。
そこから先も、住民が暮らし続け、街の関係を育てていくことが重要だったのです。
建て替えと、街を育てることは違う
UR都市機構は、ひばりが丘団地の再生を、民間事業者と連携した先進的な街づくりの事例として紹介しています。
その中では、賃貸住宅と分譲住宅の住民が混在する地域であることや、会費と事業収入を組み合わせた活動などが特徴として挙げられています。[1]
昭和の団地が目指したのは、新しい住まいを多くの人へ届けること。
再生されたひばりが丘が挑んだのは、建物を新しくするだけでなく、暮らす人たちが街を育てていくこと。
同じ団地でも、時代によって必要とされる役割が変わっているのです。
そして、その二つの時代をつないでいるのが、古い118号棟なのでした。
1959年から2020年へ|団地の変化を振り返る
ここまでの出来事を並べると、118号棟が担ってきた意味がはっきりしてきます。
ひばりが丘団地で入居開始。2,714戸の大規模住宅地が誕生する。
当時の皇太子・明仁親王と美智子妃が団地の室内などを見学。
老朽化や生活様式の変化を背景に、住宅の建て替えを開始。
旧団地の住宅再生が進み、ひばりが丘パークヒルズなどの新しい街並みへ。
住民の交流や地域の運営を継続するための組織が発足。
古いテラスハウス118号棟を改修し、地域交流の拠点に。
地域住民や地域関係者が中心となる運営体制へ移行。
時系列で見ると、ひばりが丘団地は一度生まれて、一度壊されて終わった場所ではありません。
住まいをつくる時代、住宅を更新する時代、そして住民が街を育てる時代へ。
その変化を、同じ地域の中で経験してきた住宅地なのです。
ひばりテラス118はどこ?訪れる前に知っておきたいこと
ひばりテラス118は、西武池袋線「ひばりヶ丘駅」の南側、旧ひばりが丘団地のエリアにあります。
ひばりが丘のけやき通りに近く、住宅地の中に位置しています。
現在の街並みを見ながら歩くと、建て替えられた住宅と、引き継がれてきた緑、そして古いテラスハウスを再利用した施設という、異なる時代の要素を比べられます。
施設・アクセス情報
※所在地・開設日・過去の施設構成は公開資料に基づきます。2026年10月20日時点で、各スペースの最新の営業時間・料金は十分に確認できていません。訪問前に運営案内をご確認ください。
結局、118号棟は何を未来へ残したのか?
最初に見た「ひばりテラス118」という名前。
ただの建物番号に思えた「118」は、調べてみると、昭和から続く街の歴史を引き継いだ数字でした。
1959年、ひばりが丘団地は新しい住まいと生活様式を人々に届けました。
1960年には、皇太子ご夫妻が視察に訪れるほど、時代の変化を象徴する場所でもありました。
その後、建物は古くなり、大規模な建て替えが行われます。
しかし、すべてを新しい建物に置き換えるのではなく、一つの古い住宅を残しました。
そして、その住宅は地域の人が集まり、活動し、つながる場所として使われることになったのです。
かつては家族の新しい暮らしを支えた建物が、今度は街全体の新しい暮らしを支える建物になった。
この変化を知ると、118号棟は単に昔の団地を思い出させる建物ではなくなります。
昭和の住宅地が、次の時代の街づくりに参加している。
そんな少し不思議で、そして理にかなった再生の形が、この数字の中に残されているのです。
もう一つ、ひばりヶ丘の歴史をたどるなら
118号棟の歴史が分かると、次に気になるのが「そもそも、この街はなぜ『ひばりヶ丘』という名前になったのか」ということ。
駅名が変わった理由や、団地から広がった街の歴史を知ると、今回の物語がさらに立体的になります。
参考資料・出典
公開資料の確認日:2026年10月20日。過去の発表資料に基づく施設の情報や制度は、現在の運用と異なる場合があります。
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UR都市機構|ひばりが丘団地における団地再生の取り組み
旧団地の規模、建て替え、エリアマネジメント、118号棟の施設概要。
https://www.ur-net.go.jp/chintai_portal/rebuild/hibarigaoka/index.html
確認日:2026年10月20日 -
UR都市機構|「ひばりテラス118」オープン ひばりが丘団地
2015年11月14日発表。開設日および旧118号棟を再利用した名称の由来。
https://www.ur-net.go.jp/news/2015/20151114_02.html
確認日:2026年10月20日 -
UR都市機構|団地を超えて「まち」へ・江戸東京博物館
高度経済成長期の団地の室内と当時の生活様式の再現展示。
https://www.ur-net.go.jp/aboutus/publication/web-urpress48/special3.html
確認日:2026年10月20日 -
UR都市機構|公団誕生70年 暮らしとともに変化・進化する団地
1960年9月の当時の皇太子ご夫妻によるひばりが丘団地視察の記録。
https://www.ur-net.go.jp/aboutus/publication/web-urpress82/kodan_tanjo70_1.html
確認日:2026年10月20日 -
ekirip|ひばりヶ丘駅はなぜ改名?旧「田無町駅」とひばりが丘団地の歴史
西武鉄道等の資料を参照した駅名変遷の解説。
https://www.ekirip.jp/note/hibarigaoka-station-name-danchi-history
確認日:2026年10月20日 -
オリックス不動産ほか|エリアマネジメント組織「まちにわ ひばりが丘」が住民体制へ移行
2020年7月31日発表。再生事業の経緯、住民主体への運営移行、地域活動の実績。
https://orix-realestate.co.jp/news/2020/07/release_001910.html
確認日:2026年10月20日
編集・構成:ekirip編集部
最終情報確認日:2026年10月20日