西武柳沢の巨大給水塔はどこへ?都営柳沢住宅に残った昭和レトロな風景をたどる
西武柳沢駅の南側には、かつて低層の「都営柳沢住宅」が広がり、その暮らしを支える給水塔が街の風景の一部になっていました。さらに歴史をさかのぼると、この一帯は戦時中の中島飛行機の社宅地。戦後に東京都が土地を取得し、1950年代に都営住宅へと移り変わっていきます。柳沢住宅では井戸・電動ポンプ・沈砂池・給水塔を組み合わせた自営水道が整備され、1955年12月に完成したことを示す研究資料も残っています。現在の駅前からは想像しにくい、昭和の住宅地を象徴するような景色でした。
西東京市・西武鉄道・東京都住宅関係資料・東京都立大学研究資料などを確認。旧柳沢住宅の給水塔について、確認できる資料から存在と自営水道の完成時期は追えますが、給水塔単体の正確な撤去年月日は今回確認できませんでした。
点数ではなく、この場所の特徴を6方向の感覚で表しています。
交通の便利さ
戦前の工場社宅から戦後住宅地への変化を追える
日常の買い物
西武柳沢駅南口から歴史の舞台が徒歩圏に広がる
外食・カフェ
現在も都営住宅群が街並みの一部を形成している
子育て環境
戦争と戦後復興の双方を街歩きでたどれる
自然・散歩
公園や公民館など地域施設と一緒に巡りやすい
地域のにぎわい
駅周辺は住宅地のため混雑は比較的局地的
そもそも、西武柳沢にあった「都営柳沢住宅」とは?
現在の西武柳沢駅南側を歩くと、柳沢一丁目・六丁目などに比較的大きな都営住宅が並んでいます。しかし、この街の住宅史は現在の建物から始まったわけではありません。
西東京市が公開している戦時中の地図には、西武柳沢駅の南側に「柳沢住宅」が描かれています。当時、田無・保谷周辺では中島飛行機をはじめとする軍需工場の進出に伴って工場と社宅が増え、人口も急増しました。市の資料にも、現在の西武柳沢周辺に中島飛行機住宅が広がっていたことが示されています。
駅前の団地より前に「飛行機工場の社宅」があった
地域史資料によれば、西武柳沢駅南側では1939年ごろから中島飛行機が土地を取得し、1941年ごろから社宅地の開発を開始。1942年ごろには社宅が完成したとされています。
戦後は土地の所有関係が変わり、東京都が1950年ごろに取得。1952年ごろには低層の都営柳沢住宅が整備されました。つまり「昭和の団地」というだけではなく、戦時中の企業城下町的な住宅地が、戦後の公営住宅へ受け継がれていった場所でもあるのです。
なぜ住宅地に、あんな巨大な給水塔が必要だった?
現在なら、水道管から十分な水圧で各家庭へ直接給水する仕組みが一般的です。しかし、戦後間もない住宅地では事情が違いました。
柳沢住宅を扱った東京都立大学の研究資料には、住宅地独自の「自営水道」が整備されたことが記録されています。その設備は井戸1か所、電動ポンプ、沈砂池、給水塔から構成され、各戸へ水を送っていました。完成は1955年(昭和30年)12月とされています。
高い位置に水をためれば、高低差によって水圧を生み出せます。ポンプで一度上まで水を上げ、そこから住宅へ配るという仕組みです。巨大な塔は、当時の住宅地のライフラインそのものでした。
だからこそ、給水塔は団地の中央や周囲から見えやすい場所にそびえ、結果として街のランドマークのような存在にもなりました。給水方式やポンプ技術が変化すると、こうした独立型の給水塔は新しい住宅では造られにくくなり、建て替えとともに姿を消していきます。西東京市内でも、現在確認できる古いタイプの給水塔は限られています。
「昭和レトロすぎる」と感じる理由は、形だけではない
給水塔にノスタルジーを感じるのは、単にコンクリートの塔が古びているからではありません。
低い木造住宅や数階建ての集合住宅、その上にぽつんと突き出す巨大な塔。電柱や物干し台、広い団地内道路と一緒に見えた給水塔は、戦後のニュータウン化以前の「郊外住宅地」のスケール感そのものです。
現在のマンションでは受水槽やポンプ設備が建物と一体化していることが多く、水を供給する設備そのものが街のシルエットをつくることは珍しくなりました。だから、独立した給水塔を見ると一気に「昭和の団地感」が立ち上がって見えるわけです。
給水塔が「団地の記憶装置」に見える
給水塔は住民が毎日利用する水を支えながら、子どもが遊ぶ場所からも、駅へ向かう道からも見える存在でした。機能設備なのに、結果として「帰ってきたと分かる目印」のような役割を持つ。この生活との距離の近さが、現在のインフラ設備とは少し違います。
西武柳沢の街はどう変わった?戦前から現在まで
駅南側の土地取得と開発が進み、工場従業員向け住宅が整備されました。
中島飛行機武蔵製作所を狙った爆撃は柳沢周辺にも被害をもたらしました。現在のしじゅうから第2公園付近には、1945年7月29日に模擬原子爆弾「パンプキン」が落下した歴史も残っています。
戦前の社宅用地の一部を東京都が取得し、低層の都営住宅へと変わっていきました。
井戸・電動ポンプ・沈砂池・給水塔を備えた自営水道が完成し、住宅各戸への給水を支えました。
柳沢一丁目では1983〜1988年ごろ、柳沢六丁目では1990〜1991年ごろを中心に建て替えが進みました。旧住宅地の景観は大きく変わります。
柳沢六丁目アパートは西武柳沢駅から徒歩1分の位置にあり、現在も大規模な住宅地として駅前の街並みを形成しています。
では、給水塔はいつ消えたの?
ここは少し慎重に分けて考える必要があります。
今回確認できた資料から、旧柳沢住宅の自営水道に給水塔が存在したこと、そして旧住宅地が1980年代から1990年代初頭にかけて現在の都営アパートへ建て替えられていったことまでは追えます。一方、旧柳沢住宅の給水塔だけを対象にした正確な解体年月日は確認できませんでした。
したがって、「○年○月に取り壊された」と断定するのは避けるべきでしょう。建て替えによって旧住宅地の姿が大きく変化した1980〜1990年代の過程で、旧来の給水設備も役割を終えたと考えるのが自然ですが、これは資料の年代関係からの推定です。
西東京市柳沢二丁目13番付近には、旧「都営柳沢住宅」とは別系統の都営住宅に給水塔が残っていたことを確認できる記録があります。2014年撮影として西東京市柳沢の都営住宅給水塔を扱う写真資料も存在します。そのため、古写真やネット上の写真を見るときは「駅前の旧柳沢住宅の塔」と「柳沢二丁目側の塔」を混同しないよう注意が必要です。
現在の西武柳沢で、昔の面影を探すなら?
巨大な給水塔そのものを目的に訪れるというより、現在は「なぜこの駅前にこれほどまとまった都営住宅があるのか」を意識して歩くと、街の見え方が変わります。
旧住宅地の入口。現在のロータリーや道路は、旧社宅・都営住宅の建て替えと駅前整備を経て形成されてきました。
戦前の社宅、戦後の低層都営住宅、現在の集合住宅という土地利用の変化を最も感じやすいエリアです。
1945年7月29日に模擬原子爆弾が落下した場所の近く。現在は解説板が設置され、西東京市の戦争史を伝えています。
西武柳沢から東伏見へ歩けば、住宅地・石神井川・公園・旧中島飛行機関連地域がひと続きになっていることが分かります。
今も「給水塔のある柳沢」は見られる?
東京都の住宅資料では、現在も柳沢一丁目・二丁目・六丁目など複数の都営住宅が西武柳沢周辺に存在しています。柳沢二丁目13番付近については、地域史記録でアパート中央に給水塔が存在する様子が紹介されてきました。
ただし給水塔は老朽化や給水方式変更に伴って全国的に撤去が進んでいる設備です。現地へ「給水塔を見る」目的で出かける場合は、工事や撤去の可能性もあるため、最新状況を現地で確認してください。住宅敷地は生活の場なので、撮影する場合も住民や住戸へカメラを向けず、公道などから節度を持って楽しみましょう。
資料や写真から見える「柳沢住宅の記憶」
西武柳沢を歩くなら、給水塔だけで終わらせない
旧柳沢住宅の面白さは、「昔、大きな給水塔がありました」で終わらないところです。
畑だった土地に軍需工場と社宅が生まれ、戦争が終わると都営住宅へ変わり、住民たちは独自の水道設備まで整えました。そして高度成長期を経て住宅は再び建て替えられ、現在の駅前へ。その変化を約80年という時間軸で見ると、西武柳沢という一見静かな住宅駅が、かなり濃い近現代史を持っていることが分かります。
今の街には、昭和30年代の木造住宅も、当時の生活を支えた景色もほとんど残っていません。だからこそ、かつて空へ突き出していた給水塔を知ると、何気ない南口の住宅街が少し違って見えてきます。
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よくある疑問
A. はい。地域史資料では1952年ごろに都営柳沢住宅が整備されたとされています。その前は中島飛行機の社宅地でした。
A. 柳沢住宅では井戸からくみ上げた水を住宅へ送る自営水道の設備として使われました。研究資料には井戸、電動ポンプ、沈砂池、給水塔を備えていたと記録されています。
A. 自営水道設備の完成は1955年12月とする記録があります。給水塔もこの設備の一部です。
A. 旧柳沢住宅の給水塔は現在の駅前景観には残っていません。一方、柳沢二丁目側の別の都営住宅では給水塔が記録されているため、古写真を見る際は場所の混同に注意が必要です。
A. 今回確認できた公的資料・研究資料では、給水塔単体の正確な撤去年月日までは特定できませんでした。旧住宅地は1980〜1990年代を中心に現在の都営住宅へ建て替えられています。
