清瀬はなぜ「医療の街」になった?結核療養所と志木街道からたどる病院街の歴史
最終確認:2026年8月17日|清瀬市・西武鉄道・国立病院機構東京病院などの公開情報を確認
点数ではなく、この場所の特徴を6方向の感覚で表しています。
交通の便利さ
西武池袋線清瀬駅を中心に生活圏が形成されている
日常の買い物
駅南側に病院や教育福祉施設が集まる
外食・カフェ
病院街の歴史を伝える史跡や資料が残る
子育て環境
中央公園など緑を感じられる場所がある
自然・散歩
結核療養と医療研究の歴史が街の大きな特徴
地域のにぎわい
駅前と病院街では街並みの性格が異なる
清瀬駅は病院より先にできています。清瀬駅の開業は1924年6月11日。東京府立清瀬病院は1931年10月20日に開院しました。病院街は、駅南側に広がっていた雑木林へ療養施設が次々につくられることで形成されていきました。
清瀬は本当に「結核療養の街」だった?
はい。清瀬市自身が、市南西部の病院が集まる一帯を地元で「病院街」と呼んでいると説明しています。昭和の半ばには十数の結核療養所があり、清瀬の名は結核療養の地として広く知られるようになりました。
背景には、明治以降の都市化・工業化にともなう結核のまん延があります。治療薬がまだ十分になかった時代、結核は「国民病」「亡国病」とまで呼ばれました。東京府は増え続ける患者を受け入れるため、新たな療養施設の土地を探していました。
現在の清瀬からは想像しにくいですが、当時は静かな農村でした。暮らしの中心は主に鉄道の北側で、現在病院や大学が集まる線路南側には雑木林が広がっていました。そこへ1931年、結核専門の東京府立清瀬病院が開かれます。
なぜ清瀬の病院は志木街道側から始まった?
最初の東京府立清瀬病院は、現在の清瀬中央公園や国立看護大学校周辺にあたる一帯で、志木街道寄り約11,000坪・100床からスタートしました。開院時の正門も志木街道側に設けられていました。
清瀬村には当時、柳瀬川沿いの集落だけでなく、志木街道沿いにも上清戸・中清戸・下清戸という集落がありました。病院街の歴史を見ると、志木街道は単なる現在の道路ではなく、農村だった清瀬と大規模療養施設を結ぶ重要な軸のひとつだったことが見えてきます。
100床から1,100床へ|清瀬病院は急速に巨大化した
東京府立清瀬病院は開院後、結核患者の増加を背景に急拡張しました。1931年の100床から翌年には200床、1937年400床、1938年800床、1943年には1,100床へ。ひとつの病院だけを見ても、当時どれほど結核医療への需要が大きかったかが分かります。
[ekirip-chart type="bar" title="東京府立清瀬病院の病床数の拡大" description="清瀬市が公開する開院後の病床数推移" labels="1931年|1932年|1937年|1938年|1943年" values="100|200|400|800|1100" unit="床" source="清瀬市 市報連載コラム「清瀬と結核」第3話" source_url="[https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/1010361/1011557.html](https://www.city.kiyose.lg.jp/bunkasportskankou/rekishi/1010361/1011557.html)" note="各年の病床数は清瀬市公式ページ記載値。"]現在の西武池袋線にあたる武蔵野鉄道の駅として6月11日に開業しました。
結核専門病院として清瀬の病院街の歴史が始まります。
ベトレヘムの園、府立静和園、救世軍清瀬療養園などが加わり、昭和10年代には病院街が形成されていきました。
清瀬病院と東京療養所が統合され、「国立療養所東京病院」が誕生しました。
「空気のいい雑木林」は治療そのものでもあった
抗結核薬による治療が普及する以前は、きれいな空気の中で安静にし、十分な栄養をとる療養が重視されていました。そのため、広い土地と緑が残っていた清瀬の環境は療養地として大きな意味を持ちました。
東京病院にはかつて、回復期の患者が外気療法を行う「外気舎」が72棟あり、そのうち1棟が「外気舎記念館」として残されています。清瀬市指定有形文化財でもあり、薬だけではなく環境そのものを療養に利用していた時代を伝える貴重な存在です。
現在も「医療の街」なの?
結核の治療法が大きく進歩した後、病院街も役割を変えていきました。しかし医療の集積そのものが消えたわけではありません。清瀬市によると、結核療養所を起源とする7つの病院が現在も開設地で医療を続けています。
さらに旧療養所跡地の一部には国立看護大学校や日本社会事業大学などが置かれ、病院だけではなく、看護・福祉・研究・教育まで含めたエリアへ変化しました。国立病院機構東京病院も、自院の出自が結核療養所にあることを現在の呼吸器医療の紹介の中で明記しています。
清瀬駅から病院街の歴史を感じるなら?
街の成り立ちを知るうえで分かりやすいのは、清瀬駅南口側です。かつての東京府立清瀬病院跡地の一部は現在の清瀬中央公園となり、公園内には「ここに清瀬病院ありき」と刻まれた記念碑があります。清瀬市は、この旧病院敷地を市指定史跡としています。
清瀬中央公園
東京府立清瀬病院跡地の歴史を最も分かりやすく感じられる場所。園内には記念碑が残ります。所在地は清瀬市梅園1丁目2-613です。
東京病院周辺
結核療養所をルーツに持つ現在の医療拠点。敷地内には療養時代を伝える外気舎記念館が残されています。通常の病院施設でもあるため、見学可否や立入範囲は現地案内に従ってください。
駅前の商店街だけを見ると普通の西武線沿線の住宅地ですが、南口から竹丘・梅園方向へ進むにつれて、病院、学校、福祉施設、緑地がまとまった独特の街並みに変わっていきます。現在の景色と昭和期の病院街を重ねながら歩くと、清瀬の成り立ちが理解しやすくなります。清瀬市郷土博物館も過去に清瀬駅南口を集合場所として病院街を巡る文化財探訪を実施しています。
文学者も過ごした「療養の街」
清瀬で療養した人々の中には、俳人の石田波郷をはじめ、福永武彦や吉行淳之介などの文学者もいました。市史編さんでは、彼らの作品や記録を通して療養生活を読み解く「きよせ結核療養文学ガイド」も公開されています。
病院街は単に医療施設が並んでいた場所ではありません。長い療養期間を過ごした患者、医療関係者、退院後も清瀬へ住み続けた回復者など、多くの人の生活そのものが積み重なった街でした。清瀬市も、療養生活の中で街へ愛着を持ち、退所後も清瀬で暮らした人が少なくなかったと紹介しています。
SNS・動画で見る清瀬の病院街
現地感レビュー|駅前と病院街で空気が変わる街
資料と現在の地図を重ねて見たとき、清瀬の面白さは「病院が多い」という数字だけではありません。駅前には商店や住宅が並び、その先へ進むと、まとまった緑と大きな医療・教育施設が現れます。
これは偶然できた景色ではなく、かつて雑木林の中へ広い療養施設をつくった土地利用が、形を変えながら現在まで残ったものです。清瀬市も、病院跡地が公園や看護大学校へ変わりつつ、医療・看護・福祉の研究拠点が市民生活と隣接していることを現在の清瀬の特徴として紹介しています。
清瀬駅との相性|鉄道ができて7年後に病院街が始まった
清瀬駅は2024年6月11日に開業100周年を迎えました。駅の開業は1924年、東京府立清瀬病院は1931年。病院街より鉄道のほうが先です。
「医療の街だから駅ができた」という順番ではありません。先に鉄道と駅が生まれ、その後、駅南側に残っていた広大な雑木林へ療養所が進出したことで、駅と巨大な病院街が隣り合う現在の清瀬らしい都市構造が生まれました。
関連するekirip記事
行く前に知っておきたいこと
病院街は観光施設ではありません。現在も診療を行う医療機関や教育施設が多いため、敷地への無断立ち入りや患者・職員の撮影は避けましょう。歴史を気軽に感じたい場合は、市指定史跡でもある清瀬中央公園の旧清瀬病院跡地から見るのが分かりやすい選択です。
清瀬の病院街についてのQ&A
A. いいえ。清瀬駅は1924年開業で、最初の東京府立清瀬病院が開院したのは1931年です。駅のほうが7年先です。
A. 当時、駅南側に広い雑木林があり、結核患者を受け入れる大規模な療養施設を整備できる土地がありました。東京府立清瀬病院の開院を皮切りに施設が集中していきました。
A. 関係があります。東京府立清瀬病院は開院当初、志木街道寄りにあり、正門も志木街道に面していました。
A. 病棟そのものは残っていませんが、跡地の一部が清瀬中央公園となり、「ここに清瀬病院ありき」の記念碑があります。
A. はい。療養所を起源とする複数の病院が現在もあり、看護・福祉・研究・教育施設も集まっています。
この街を575にしてみた
病む人支え
街となる
一言で言うと
駅の南側を歩くと、清瀬のもうひとつの顔が見えてくる
現在の清瀬駅前だけを見れば、商店街と住宅が広がる穏やかな西武線沿線の街です。
けれど南へ少し視線を伸ばすと、そこには90年以上前から続く医療の歴史があります。雑木林を切り開いて始まった100床の病院は、やがて巨大な療養所群となり、病院、研究所、看護、福祉、教育へと役割を変えながら現在の街へ受け継がれました。
清瀬中央公園に残る「ここに清瀬病院ありき」という短い言葉。その周囲の景色を知ると、「なぜ清瀬にはこんなに病院が多いの?」という素朴な疑問の答えが、街そのものの中に残っていることに気づきます。
